ピルニッツ宣言
ピルニッツ宣言(Johann Heinrich Schmidt 画/所蔵不明/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

ピルニッツ宣言


ピルニッツ宣言 (1791.8)

オーストリア大公レオポルト2世(神聖ローマ皇帝)(マリ=アントアネットの兄)とフリードリヒ・ウィルヘルム2世(プロイセン王)がザクセンのピルニッツ宮殿で発した共同宣言。ヨーロッパ各国がフランス革命の進展に警戒心を強めるなか、バレンヌ逃亡に失敗したフランス国王を擁護する立場を明らかにした。

ピルニッツ宣言

1791年8月、神聖ローマ皇帝レオポルト2世とプロシア王フリードリヒ・ウィルヘルム2世とがザクセンのピルニッツ宮殿で会見し、フランス革命の進行を前に、フランス王を擁護する立場を明らかにした共同宣言。レオポルトは啓蒙君主であったが、ルイ16世の妃マリ・アントアネットがオーストリアのハプスブルク家出身の妹であったところから、バレンヌ逃亡事件以後フランス王の地位が危くなったのをみて、このような挙に出たものである。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

欧米における近代社会の成長

フランス革命とナポレオン

立憲議会の成立と戦争の開始

ヨーロッパ各国の君主は、フランスの亡命貴族(エミグレ emigre)からの働きかけもあり、フランス革命の進展に警戒心を強めた。1791年8月フリードリッヒ・ヴィルヘルム2世(プロイセン王)オーストリア皇帝レオポルト2世(神聖ローマ皇帝)はドレスデン近くのピルニッツ Pillnirz で宣言をだし、フランスに対する行動の決意を告げた(ピルニッツ宣言)。立法譲会では、立憲君主派とジャコバン左派は戦争に慎重であったが、ジロンド派は革命を強化できると考えて開戦を主張し、まったく逆の立場で開戦を望む国王によって組閣をゆだねられた。国王の立場からすれば、戦争の勝利は王の威信を高めるであろうし、逆に諸外国の勝利となれば、革命の崩壊が期待できたのである。1792年4月、フランスはオーストリアに宣戦を布告した。プロイセンはオーストリアと結んだ。国内が混乱状態にあり、準備不足であったフランス軍は劣勢であった。ジロンド派内閣は罷免され、フイヤン派内閣が成立するが、プロイセン・オーストリア同盟軍は国境に迫っていた。

7月11日、立法議会は「祖国の危機」を宣言し、義勇兵を全国でつのった(祖国非常事態宣言)。フランス人のナショナリズムが高揚し、地方からパリに義勇兵がぞくぞくと結集した。

7月25日、プロイセン軍司令官ブラウンシュバイク公はコブレンツで宣言を発し、フランス国王に危害が加えられればパリ市を破壊する警告した。この宣言は王政の瓦解を早める結果となった。ジャコバン=クラブとパリの各地区の市民は国王の廃位を要求し、8月10日パリ民衆と義勇兵は、テュイルリー宮殿を攻撃し、宮殿を警護していたスイス衛兵は惨殺された。民衆の圧力に屈し、議会は王権を停止し、普通選挙による憲法制定議会すなわち国民公会の招集を布告した(8月10日事件)。ルイ16世タンプル宮に幽閉された。

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詳説世界史研究

世界史B

10.近代ヨーロッパ・アメリカ世界の成立

46. フランス革命

憲法制定直前の1791年6月に国王一家は国外逃亡をはかり、ヴァレンヌ逃亡事件をおこして国民の信頼を失った。このため10月に成立した立法議会では共和派の勢力が増大し、立憲君主派のフイヤン派と、商工業ブルジョワを代表する共和主義者のジロンド派が対立した。革命の波及を恐れたオーストリア・プロイセンピルニッツ宣言を出して革命への干渉を企てた。また国内で反革命の動きが活発になると、ジロンド派は勢力を強め、1792年の春に政権につくと、オーストリアに宣戦した。しかし、軍隊は士官に王党派が多数含まれていて戦意に欠け、オーストリア・プロイセン連合軍がフランス国内に侵入した。この危機に際し、立法議会祖国非常事態宣言を発表し、義勇兵を募った。パリの民衆と全国から集まった義勇軍は、反革命を封ずるために、8月10日にテュイルリー宮殿を襲撃した(8月10日事件)。(革命の第2段階)

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