ヘイスティングズの戦い
1066年にイングランドのヘイスティングスから若干内陸に入ったバトルの丘でノルマンディー公ギヨーム2世とハロルド2世(イングランド王)との間で戦われた会戦。ギヨーム2世が勝利し、ウィリアム1世としてノルマン朝を開いた。
ヘイスティングズの戦い
経過
発端
イングランドは1016年、デンマーク・ノルウェー王クヌートによって征服された(クヌート1世(イングランド王))。クヌートの王国はノルウェーとスウェーデンの一部をも征服したため強大な帝国となった(北海帝国)。
彼の死後、イングランドではエドワード懺悔王が即位してデンマークから自立し、アングロ・サクソンの王統を回復した。しかし、その王権は弱体で、国内には有力な封建諸侯が割拠していた。
エドワードは、最も有力な諸侯であったウェセックス伯爵ゴドウィンの娘エディスを王妃に迎えて彼の協力を得ていたが、実子がないまま没した。ゴドウィンの子でエディスの兄ハロルドが諸侯に擁立されて王位に就きハロルド2世(イングランド王)となったが、これに対し即座に異議を唱えたのが弟トスティとエドワード懺悔王の従甥でフランス貴族のノルマンディー公ギヨーム2世であった。
ギヨーム2世はノルマンディー公国を強国に育て、フィリップ1世(フランス王)の摂政でウェセックス王アルフレッド大王とマーシア王オファの子孫であるフランドル伯ボードゥアン5世の娘マティルダを妻にしてフランス内で不動の地位を確立していた。彼は懺悔王からイギリス王位の継承を約束されたと主張し、アレクサンデル2世(ローマ教皇)からイギリス支配のお墨付きをも取り付けて遠征の準備にかかった。
ノルウェー軍の侵攻
ギヨーム2世は8月初めに大艦隊を河口に集めて海峡横断の機を待ったが、逆風のため2ヶ月近くも出発できなかった。ギヨーム2世の侵入に備えて軍を待機させていたハロルド2世は、当初用意させた糧食が尽きたため9月初めに備えを解いた。直後、トスティと手を組んだハーラル3世(ノルウェー王)がイギリスの王位を狙って北から侵入した。ハロルド2世(イングランド王)はノルウェー軍が上陸したヨークまでロンドンからわずか4日間で急行し、油断していたハーラル3世の陣営を急襲し(スタンフォード・ブリッジの戦い)、トスティとハーラル3世を討ち取りノルウェー軍を壊滅させた。
戦い
この後に何が起こったかについては諸説あり、ノルマン側の弓兵がハロルド軍の前衛の盾の列の後方に攻撃を集中した結果、イングランド軍の陣形が綻んだとの説や、ギヨーム2世が退却を装ってイングランド軍の前衛を突出させたところで反転攻撃に転じたとの説もある。いずれにせよノルマン軍はイングランド軍の陣形を崩すことに成功し、ハロルド2世は戦闘中に落命した。
ハロルド2世が討ち取られたとされている地点はイングランド軍側から見て右翼の丘の中腹にあるが、丘のこちら側は勾配が他の部分に較べて緩やかなことから、ノルマン軍がイングランド軍の右翼に攻撃を集中させた為、ハロルド2世も右翼に移動して前線で戦闘に参加して落命したとの見方もある。
バイユーのタペストリーではハロルド2世は矢で目を射抜かれたことになっているが、これについては「視力を失う」ことが別の何かの象徴なのではないかとの見方もあり、史実がこのようであったと断言出来るわけではないとされる。
戦後処理
ギヨーム2世はイングランド南部を平定、12月25日にウィリアム1世(イングランド王)として即位し、ノルマン朝を開いた。
ウィリアム1世は反抗したアングロ・サクソン系貴族の土地を没収して本土から付き従っていた功臣に与え、彼ら諸侯に忠誠を誓わせて強大な王権を樹立した。またロンドンを首都と定め、教会組織も整えた。
こうしてイギリスには、中世では例外的に王権が強力な独自の封建制が成立することになった。その後、ノルマン人はアングロ・サクソン人に同化し、文化の融合も行われた。言語もアングロ・サクソンの言葉を中心に、ノルマン・フランスそれぞれの要素を融合させ、今日の英語になっていったのである。