ボリシェヴィキ Bolsheviki
ロシア語で「多数派」を意味する。ロシア社会民主労働党の左派。急進的な革命家による党を主張したレーニンらのグループ。ロシア革命後、1918年にロシア共産党と改称した。
ボリシェヴィキ
ロシア語で「多数派」を意味する。ロシア社会民主労働党の左派。急進的な革命家による党を主張したレーニンらのグループ。ロシア革命後、1918年にロシア共産党と改称した。
58.帝国主義列強の展開
ロシア
ロシアでは1890年以降、フランス資本の援助もあり重工業がおこったが、国民の多くは貧しく、国内市場が狭いためアジアへの進出をはかり、1891年にはシベリア鉄道の建設に着手した。工場労働者を基盤にマルクス主義運動が高まり、レーニンやプレハーノフらによるロシア社会民主労働党が結成された。
ロシア社会民主労働党は創設直後ボリシェヴィキとメンシェヴィキに分裂した。またナロードニキの流れをくむ社会革命党資本家による立憲民主党など、政党の結成があいついだ。こうして、ロシアの政治・社会改革をもとめるさまざまな政治潮流が出現した。
欧米における近代国民国家の発展
ヨーロッパの再編
ロシアの改革
20世紀に入って、ナロードニキの運動はロシア本国では社会革命党(エスエル)がその流れを汲み、主流派メンシェヴィキと提携したが、左派はボリシェヴィキと結んで十月革命(十一月革命)を成功に導いた。世界各地に対しては、その思想がとくに後進地域の民衆的革命思想として普及し、中国革命では孫文、第二次世界大戦後の韓国の独裁体制を批判した金芝河もその流れの一環として位置づけることができる。
二つの世界大戦
第一次世界大戦とロシア革命
ロシア革命
臨時政府はロシアを自由な共和国とし、メンシェヴィキと社会革命党が多数を占める労兵ソヴィエトの支持をえて政治犯の大赦、言論・集会・結社の自由、身分的・宗教的・民族的規制の撤廃などを実現した。しかし、臨時政府の目標は帝政にかわって連合国 の一員として戦争に勝利することであった。ソヴィエト内ではボリシェヴィキは少数派であったが、1917年4月、指導者のレーニン Lenin (1870〜1924)が亡命先のスイスから帰国した。レーニンは革命的祖国防衛主義を批判して戦争の即時中止を求め、労働者と農民からなるソヴィエトが権力を握ることを訴えた(四月テーゼ)。
農村では土地を求める農民革命が、ウクライナやフィンランドでは民族革命が並行して進行した。首都の兵士・労働者の間に「いっさいの権力をソヴィエトへ」というスローガンを掲げたボリシェヴィキの影響が広まると、臨時政府は社会革命党のケレンスキー Kerenskii (1881〜1970)を首班とし、自由主義者と社会主義者との連立政府を成立させて態勢を立て直そうとした。しかし、9月にコルニーロフ将軍 Kornilov (1870〜1918)の反政府反乱がボリシェヴィキの協力によって鎮圧されると、革命派の力はいっそう強まった。11月7日(露暦 10月25日)、レーニン・トロツキー Trotskii (1879〜1940)らは武装蜂起して政府を倒し、政権を握った。ボリシェヴィキと社会革命党左派が多数を占めることになった全ロシア=ソヴィエト会議は、8日から9日にかけてレーニンが書いた「労働者・兵士・農民諸君へ」「平和に関する布告」「土地に関する布告」を採択した。「平和に関する布告」は無併合・無賞金・民族自決の原則による即時講和を全交戦国の人民と政府に呼びかけ、秘密条約の公表を約束した。「土地に関する布告」は地主の土地を無償で没収することなどを定めた。こうしてソヴィエト政権は、二月革命(三月革命)以来国民が求めてきた平和と土地の問題に解決の緒を示したのである。これが十月革命(十一月革命)である。
ソヴィエト政権と戦時共産主義
1918年1月、憲法制定議会が召集されたが、反ソヴィエトの社会革命党が第一党を占めた。そのため、ボリシェヴィキは憲法制定議会を封鎖してソヴィエトを基盤とする体制をきずき、社会主義の確立を目標とすることを明らかにした。ドイツ側とは単独講和にふみきりブレスト=リトフスク条約を結んだ( 合衆国の参戦と戦争の終結)。ボリシェヴィキは共産党と改称し、首都は内陸のモスクワに移された。