ポルトガル王国
A.D.1139〜A.D.1910
現在のポルトガルにあたる地域に存在した王国。
- ブルゴーニュ朝 1139年(1143年)〜1385年(1383年) カスティーリャ王国より独立
- アヴィス朝 1385年〜1580年(1583年)
- スペイン・ハプスブルク朝 1581年〜1640年
- ブラガンサ朝 1641年〜1910年 1910年10月5日革命によって共和制へ
ポルトガル王国
首都: コインブラ, リオ・デ・ジャネイロ, リスボン
ヨーロッパ世界の形成と発展
西ヨーロッパ中世世界の変容
スペインとポルトガル
アヴィス朝(1385〜1580)の時代に絶対王政化が進められ、積極的な海外進出が行われた。初代国王ジョアン1世(ポルトガル王)(位1385〜1433)の子エンリケ航海王子(1394〜1460)は、1415年モロッコの商業都市セウタ攻略を皮切りに、カナリアス・マデイラ・アゾレスなどの大西洋諸島と、ブランコ岬・ヴェルデ岬などの西アフリカ沿岸の探検・航海を推進した。
それは、国内の貴族勢力を弾圧して絶対王政の確立に努めたジョアン2世(ポルトガル王)により継承された。王はスーダンの金取引に成功すると、さらにアフリカ南下政策を推進し、インド航路開拓の計画を具体化した。その結果、1488年バルトロメウ・ディアスはアフリカ南端の喜望峰に到達、ポルトガル海洋帝国への道が大きく開かれた。
ヨーロッパ主権国家体制の展開
ヨーロッパ主権国家体制の形成
スペイン絶対王政の確立
ポルトガル王国は、早くも12世紀にレコンキスタの過程でカスティリャから独立し、13世紀にはレコンキスタを完了した。15世紀初めにはエンリケ航海王子のもとで、アフリカのセウタを占領し、アフリカ西海岸を中心に対外進出に乗りだしていた。
グラナダ陥落によってようやくレコンキスタを完了したスペインは、このポルトガル王国とともに1493年、教皇名による分解線を設定、翌年、教皇抜きでこれを修正したトルデシリャス条約によって世界の2分割をはかった。さらにこうしてスペインは、対外的にも広大な植民地を獲得して世界帝国となっていった。
1588年にはスペインの誇った無敵艦隊(アマルダ)が、ヘンリー8世(イングランド王)の宗教改革以来、宗教問題やアメリカの領有権をめぐって対立の続いていたイギリスの海軍に大敗し、政治・軍事的にも衰退にむかった。このような衰退過程を決定的にしたのは、17世紀初頭になって、アメリカからの銀の流入が激減したことである。また1640年には、イギリスの援助をうけたポルトガルが、ブラガンサ朝のもとに再独立を果たした。
イスラーム世界の形成と発展
インド・東南アジア・アフリカのイスラーム化
東南アジア諸島部のイスラーム化
15世紀初め、海上交通の要衝マラッカにマレー人のイスラーム王国がおこり、スマトラ島の一部も領土に加えて、中継貿易で栄えた。このマラッカ王国の発展とともにイスラーム教はマレー半島からジャワ島など周辺の島々へと広まった。しかし王国は1511年にポルトガルの艦隊に攻められ滅んだ(ポルトガル領マラッカ)。
アジア諸地域の繁栄
東アジア・東南アジア世界の動向
明後期の社会と文化
こうして明朝の中期以降、江南の上海・松江の綿織物、蘇州の絹織物などを先頭にして手工業が目覚ましい発展をとげた。とくに江南の諸都市では手工業の規模が大きくなり、なかにはマニュファクチュア(工場制手工業)的生産形態もみられ、商品が多量に生産された。また四川や福建の茶の栽培、景徳鎮の陶磁器などをはじめ、諸地域でも産業が発展した。各地で生産された商品は、国内の需要の増加や流通の拡大によって全国各地に運ばれた。さらに、当時来航していたポルトガルやスペインの商人たちによって、生糸や蘇州の絹織物、景徳鎮の陶磁器などは代表的な国際商品として日本やアメリカ大陸、ヨーロッパに輸出された。
宣教師の来航
明末の科学技術書の出版や儒教経典の実証的研究がおこなわれた背景には、当時中国へ来航したマテオ・リッチをはじめとするイエズス会宣教師がもたらした西洋の知識と技術とがあった。
インド航海路の開拓後、ポルトガル商人はさかんに東アジアへ来航した。彼らは1517年、広東付近に来航して以降、明朝と交易を開き、1557年にはマカオに居住権をえた。アジアへ向かうポルトガル商船には、商人ばかりでなくキリスト教宣教師も乗船していた。当時ヨーロッパでは、プロテスタントによる宗教改革がおこなわれていたが、カトリック側では対抗宗教改革(反宗教改革)運動のひとつとしてイエズス会(ジェズイット教団)が結成され(1534)、その重要な活動のひとつが海外布教であった。イエズス会の創立者のひとりであるフランシスコ・ザビエル(シャヴィエル 1506〜1552)は、はじめゴア・セイロン・マレー半島などで布教活動をおこない、その後、1549年日本に初めてキリスト教を伝えた。さらに彼は布教のため中国へ渡ったが、1552年、広州港外の上川島で病死した。
近代ヨーロッパの成立
ヨーロッパ世界の拡大
ポルトガルの東インド航路の発見
新航路開拓の事業を諸国に先駆けて進めたのは、イベリア半島のポルトガル・スペイン両国であった。イベリア半島ではキリスト教勢力により、イスラーム勢力を半島から駆逐するレコンキスタ運動( スペインとポルトガル)が11世紀ころから継続されてきた。半島西部でイスラームを駆逐し、いち早く中央集権化を完成させたポルトガルが、15世紀前半アフリカ西海岸の探検事業に乗りだした。航海王子と呼ばれたエンリケ航海王子(1394〜1460)は、サグレス岬に研究所をつくり、航海術や天文学の研究を進め、航海者を養成し、西アフリカ海岸探検・東インド航路探検に彼らをつぎつぎと派遣した。ポルトガルの船乗りは、マデイラ島・ヴェルデ岬をへて、1447年にはアゾレス諸島に達している。
1488年バルトロメウ・ディアス(1450頃〜1500)の船隊はアフリカの南端の南に達し、嵐の岬を発見した。これはのちにジョアン2世(ポルトガル王)(位1481〜1495)により「喜望峰」と名づけられ、アフリカを迂回する東インドへの航路発見の可能性がさらに高まった。
一方、アフリカ東海岸の情報も、1487年ジョアン2世(ポルトガル王)によって派遣された使節ペーロ・ダ・コヴィリャンとアフォンソ・ダ・パイヴァによってもたらされた。とっくにコヴィリャンはアデンからインドさらにアフリカ東岸のソファーラにいたり、カイロから報告書をジョアン2世に送っている。
前半生についてはほとんどわからない。アフリカ南端を経由して東アフリカから水先案内人を乗せて、1498年5月20日カリカットに到達した。ガマの航路図は1507年まで印刷されることはなかった。
ポルトガルの植民地と貿易
1500年、第2次インド航海が13隻からなるカブラル船隊によりおこなわれた。ペドロ・アルヴァレス・カブラル(1460頃〜1526)はブラジルに漂着したあと、南大西洋を横切りインドにいたった。リスボンからは、東方貿易の利益を独占すべく、毎年インドに船隊が送りだされた。しかし、インド洋全域にわたってすでにムスリム商人が商業支配権を維持していた。彼らによる貿易活動はトルコ・エジプト・ヴェネツィアの利益とも結びついていた(マムルーク朝)。ヴェネツィアの支援をうけ、エジプトはポルトガルをこの海域から排除しようとしたが、1509年インド西海岸ディウ沖の戦い(ディーウ沖の海戦)で、フランシスコ・デ・アルメイダ(1450頃〜1510)の率いるポルトガル船隊にその艦隊は撃破された。
ポルトガルのインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケ(1462頃〜1515)は1510年にインド西海岸のゴア、1511年にマラッカ(ポルトガル領マラッカ)、1515年にペルシア湾口ホルムズを占領、また紅海の入り口のアデンも押さえ、ムスリム商人の活動を封じ、インド洋支配の戦略拠点を固めようとした。
ポルトガルはさらに、1517年にコロンボを占領、1557年マカオに居住許可をえて東アジアにも進出した。1543年にポルトガル人は種子島に漂着している。
大航海時代がもたらしたもの
大航海時代をつうじてのヨーロッパ勢力の拡大は、世界史にきわめて大きな影響を与えている。ヨーロッパ人はヨーロッパ・アジア・アフリカ・オセアニアを含む地球規模の貿易・植民活動を展開するようになった。
世界の一体化は彼らの主導のもとに、以後展開されることになる。まずポルトガルのリスボンが、ついでスペインのアメリカ大陸支配、アジア貿易独占と結びついてアントウェルペン(ベルギーのアントワープ)が、そして、オランダの海上活動と結びついてアムステルダムが世界貿易の中心となった。
アメリカ大陸の安価な銀の大量の流入は全ヨーロッパ的な物価上昇をもたらし、ヨーロッパの経済秩序に大きな変化を与えた。いわゆる価格革命と呼ばれるものである。南ドイツの銀鉱山は衰退した。北イタリア都市を中心とする地中海貿易、北ドイツ都市を中心とするバルト海貿易は、スペイン・ポルトガル・オランダ・イギリス・フランスなどの大西洋を中心とする貿易活動に対して相対的に地位を低下させた。
ヨーロッパの遠隔地貿易は、アメリカ大陸との貿易、新航路をつうじての香辛料などアジアとの貿易により、商品の種類、取引額などを拡大させ、貿易活動の中心は大西洋沿岸諸国に移ったのである。大航海時代に生じたこうした世界的規模の商業や貿易システムの大変革は商業革命と呼ばれる。アメリカ大陸へのヨーロッパ人の移住、ヨーロッパ文化の移植が進むにつれて、大西洋はヨーロッパ世界の内海となった。
王室の貿易独占政策によりポルトガルが、ついでスペインが富強となった。しかし海上覇権を維持し、他国との競争を排除してアジア貿易・新大陸貿易を独占するためには国力を必要とした。ポルトガルはその人的資源ならびに財力の限界をこえて拡大した。16世紀中にポルトガルの人口は200万から100万程度にまで激減したとみられている。リスボンをくりかえし襲った疫病、若い世代の多くが兵士や船乗り、あるいは役人として海外に渡った結果である。17世紀にはポルトガルの衰退は明らかとなる。スペインは大国であった。しかし16世紀後半、イギリスやスペインの属領であったオランダの挑戦をうけることになる。スペインが獲得した富も国内の産業を育成せず、王室の富の独占はかえって国民的規模の産業の発展を阻むこととなった。
年表
ブルゴーニュ朝
- 1143年 – ポルトゥカーレ伯アフォンソ・エンリケス、アフォンソ1世(ポルトガル王)として即位、ポルトガル王国成立
- 1147年 – 十字軍の援助によりリスボン占領(レコンキスタ)
- 1179年 – ローマ教皇、ポルトガル王国を承認
- 1212年 – ナバス・デ・トロサの戦い、キリスト教国の連合がムワッヒド朝に勝利(レコンキスタ)
- 1242年 – サンシュ2世(ポルトガル王)、アルガルヴェ地方征服しアルガルヴェ王国を建国
- 1249年 – アフォンソ3世(ポルトガル王)、アルガルヴェ東部のファロとシルヴェスを陥落させ、ポルトガルのレコンキスタ完了
- 1255年 – アフォンソ3世(ポルトガル王)、リスボン遷都 地中海と北海を結ぶ中継地として繁栄。
- 1290年 – ディニス1世(ポルトガル王)、コインブラ大学創設(現在「コインブラ大学 アルタとソフィア」として世界遺産に登録)
- 1294年 – 対英通商条約
- 1348年 – ポルトガルにペスト蔓延
- 1355年 – アフォンソ4世(ポルトガル王)、王子ドン・ペドロ(ペドロ1世(ポルトガル王))の愛人イネスを殺害
- 1383年 – ベアトリス・デ・ポルトゥガル(ポルトガル女王)即位 叔父のアヴィス騎士団総長ジョアンと王位を争って敗北
アヴィス朝
- 1385年 – ジョアン1世(ポルトガル王)、アヴィス王朝を創始。アルジュバロータの戦いでカスティーリャ王国軍撃破。絶対王政化を進める
- 386年 – イングランドとウィンザー条約の締結
- 1415年 – エンリケ航海王子、モロッコの商業都市セウタを攻略。カナリア諸島発見(大航海時代 ポルトガル海洋帝国へ)
- 1420年 – マデイラ諸島発見
- 1427年 – アゾレス諸島発見
- 1444年 – ヴェルデ岬発見
- 1460年 – エンリケ航海王子没
- 1481年 – ジョアン2世(ポルトガル王)即位。貴族階級弾圧。アフリカ南下政策推進
- 1482年 – ギニア湾沿岸にサン・ジョルジェ・ダ・ミナ商館開設
- 1488年 – バルトロメウ・ディアス、喜望峰発見
- 1494年 – スペインとトルデシリャス条約の締結
- 1499年 – ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見
- 1500年 – ペドロ・アルヴァレス・カブラル、ブラジル発見
- 1510年 – アフォンソ・デ・アルブケルケ、ゴア占領
- 1511年 – アフォンソ・デ・アルブケルケ、マラッカ(ムラカ)占領
- 1522年 – モルッカ諸島のテルナテ島にポルトガルの要塞建設
- 1536年 – 異端審問所設立
- 1548年 – ブラジルに総督が設置され、ポルトガル王室による本格的な植民地経営開始
- 1557年 – マカオにポルトガル人の居住区設立
- 1578年 – アルカセル・キビールの戦い、サアド朝スルタン軍と戦い、セバスティアン1世(ポルトガル王)戦死
スペイン・ハプスブルク朝
- 1580年 – スペイン・ハプスブルク家のフェリペ2世(スペイン王)、ポルトガル王位も継承(フィリペ1世)
- 1588年 – アルマダの海戦、スペイン無敵艦隊の敗北
- 1598年 – フェリペ3世(スペイン王)即位(ポルトガル王としてはフィリペ2世)
- 1621年 – フェリペ4世(スペイン王)即位(ポルトガル王としてはフィリペ3世)
- 1637年 – エヴォラの反乱
- 1640年 – リスボン蜂起、再独立(ポルトガル王政復古戦争 – 1668年)
ブラガンサ王朝
- 1640年 – ブラガンサ公ジョアン4世(ポルトガル王)即位、ブラガンサ王朝をひらく。
- 1668年 – スペイン王国によるポルトガル独立の承認
- 1703年 – イギリスとのメシュエン条約調印
- 1755年 – リスボン大地震(1775)
- 1759年 – イエズス会追放
- 1777年 – マリア1世(ポルトガル女王)即位、ポンパル失脚
- 1789年 – フランス革命
- 1801年 – オレンジ戦争
- 1807年 – ジャン=アンドシュ・ジュノー将軍のフランス軍侵入、女王マリア1世、摂政ドン・ジョアンらはブラジルに脱出
- 1808年 – ポルトガル宮廷リオデジャネイロに遷都
- 1820年 – 1820年自由主義革命
- 1822年 – ブラジルの独立宣言
- 1825年 – ポルトガルのブラジル帝国の独立の承認
- 1828年 – ドン・ミゲル(ミゲル1世)のクーデター
- 1832年 – ポルトガル内戦(-34年)
- 1846年 – マリア・ダ・フォンテの乱、パトゥレイアの乱
- 1851年 – ジョアン・デ・サルダーニャのクーデター(レジェネラサン)
- 1852年 – 下院に直接選挙制が導入される
- 1908年 – カルロス1世(ポルトガル王)とルイス・フィリペ(ブラガンサ公)王子暗殺
- 1910年 – 1910年10月5日革命 ポルトガル第一共和制成立
歴代君主
ポルトガル ボルゴーニャ家(1143年 – 1383年)
君主名 | 生没年月日 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|
アフォンソ1世(ポルトガル王) | 1109年〜1185年12月6日 | 1139年7月25日 | 1185年12月6日 |
サンシュ1世(ポルトガル王) | 1154年11月11日〜1212年3月26日 | 1185年12月6日 | 1212年3月26日 |
アフォンソ2世(ポルトガル王) | 1185年4月23日〜1223年3月25日 | 1212年3月26日 | 1223年3月25日 |
サンシュ2世(ポルトガル王) | 1209年9月8日〜1248年1月4日 | 1223年3月26日 | 1247年12月4日 |
アフォンソ3世(ポルトガル王) | 1210年5月5日〜1279年2月16日 | 1248年1月4日 | 1279年2月16日 |
ディニス1世(ポルトガル王) | 1261年10月9日〜1325年1月7日 | 1279年2月6日 | 1325年1月7日 |
アフォンソ4世(ポルトガル王) | 1291年2月8日〜1357年5月28日 | 1325年1月7日 | 1357年5月28日 |
ペドロ1世(ポルトガル王) | 1320年4月19日〜1367年1月18日 | 1357年5月8日 | 1367年1月18日 |
フェルナンド1世(ポルトガル王) | 1345年10月31日〜1383年10月22日 | 1367年1月18日 | 1383年10月22日 |
ポルトガル アヴィス家(1385年 – 1580年)
君主名 | 生没年月日 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|
ジョアン1世(ポルトガル王) | 1358年4月11日〜1433年8月14日 | 1385年4月6日 | 1433年8月14日 |
ドゥアルテ1世(ポルトガル王) | 1391年10月31日〜1438年9月9日 | 1433年8月14日 | 1438年9月9日 |
アフォンソ5世(ポルトガル王) | 1432年1月15日〜1481年8月28日 | 1438年9月13日 1477年11月15日 | 1477年11月11日 1481年8月28日 |
ジョアン2世(ポルトガル王) | 1455年3月3日〜1495年10月25日 | 1477年11月11日 1481年8月28日 | 1477年11月15日 1495年10月25日 |
マヌエル1世(ポルトガル王) | 1469年5月31日 - 1521年12月13日 | 1495年10月25日 | 1521年12月13日 |
ジョアン3世(ポルトガル王) | 1502年6月7日 - 1557年6月11日 | 1521年12月13日 | 1557年6月11日 |
セバスティアン1世(ポルトガル王) | 1554年1月20日 - 1578年8月4日 | 1557年6月11日 | 1578年8月4日 |
エンリケ1世(ポルトガル王) | 1512年1月31日〜1580年1月31日 | 1578年8月4日 | 1580年1月31日 |
ポルトガル ハプスブルク家(1581年 – 1640年)
君主名 | 生没年月日 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|
フィリペ1世(スペイン王) | 1527年5月21日 - 1598年9月13日 | 1581年3月25日 | 1598年9月13日 |
フィリペ2世(スペイン王) | 1578年4月14日 - 1621年3月31日 | 1598年9月13日 | 1621年3月31日 |
フィリペ3世(スペイン王) | 1605年4月8日 - 1665年9月17日 | 1621年3月31日 | 1640年12月1日 |
ポルトガル ブラガンサ家(1640年 – 1910年)
君主名 | 生没年月日 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|
ジョアン4世(ポルトガル王) | 1603年3月18日〜1656年11月6日 | 1640年12月1日 | 1656年11月6日 |
アフォンソ6世(ポルトガル王) | 1643年8月21日〜1683年9月12日 | 1656年11月6日 | 1683年9月12日 |
ペドロ2世(ポルトガル王) | 1648年4月26日〜1706年12月9日 | 1683年11月6日 | 1706年12月9日 |
ジョアン5世(ポルトガル王) | 1689年10月22日 - 1750年7月31日 | 1706年12月9日 | 1750年7月31日 |
ジョゼ1世(ポルトガル王) | 1714年6月6日〜1777年2月24日 | 1750年7月31日 | 1777年2月24日 |
マリア1世(ポルトガル女王) | 1734年12月17日 - 1816年3月20日 | 1777年2月24日 | 1816年3月20日 |
ペドロ3世(ポルトガル王) | 1717年7月5日 - 1786年5月25日 | 1777年2月24日 | 1786年5月25日 |
ジョアン6世(ポルトガル王) | 1767年5月13日〜1826年3月10日 | 1816年3月20日 | 1826年3月10日 |
ペドロ4世(ブラジル皇帝) | 1798年10月12日〜1834年9月24日 | 1826年3月10日 | 1826年5月2日 |
マリア2世(ポルトガル女王) | 1819年4月4日〜1853年11月15日 | 1826年5月2日 1834年5月26日 | 1828年6月23日 1853年11月15日 |
ミゲル1世(ポルトガル王) | 1802年10月26日〜1866年11月14日 | 1828年2月26日 | 1834年5月6日 |
フェルナンド2世(ポルトガル王) | 1816年10月29日〜1885年12月15日 | 1837年9月16日 | 1853年11月15日 |
ペドロ5世(ポルトガル王) | 1837年9月16日 – 1861年11月11日 | 1853年11月15日 | 1861年11月11日 |
ルイス1世(ポルトガル王) | 1838年10月31日 – 1889年10月19日 | 1861年11月11日 | 1889年10月19日 |
カルロス1世(ポルトガル王) | 1863年9月28日 – 1908年2月1日 | 1889年10月19日 | 1908年2月1日 |
ルイス・フィリペ(ブラガンサ公) | 1887年3月21日 – 1908年2月1日 | 1908年2月1日 | 1908年2月1日 |
マヌエル2世(ポルトガル王) | 1889年11月15日 – 1932年7月2日 | 1908年2月1日 | 1910年10月4日 |
参考 Wikipedia