ラパロ条約 Rapallo A.D.1922〜A.D.1922
ヴェルサイユ体制下で国際的に孤立するドイツとソヴィエト政権が締結した条約。相互に賠償請求権を放棄し、外交関係を回復、最恵国待遇通商関係の促進を定めた。ドイツの修正主義外交の一環。
ラパロ条約
国際的に孤立するドイツとソヴィエト政権が締結した条約。相互に賠償請求権を放棄し、外交関係を回復、最恵国待遇通商関係の促進を定めた。
二つの世界大戦
ヴェルサイユ体制下の欧米諸国
修正主義の台頭
もっとも強硬な修正主義を掲げる国は当然ながらドイツであった。ドイツは講和条約そのものはうけ入れざるをえなかったが、早くから東部国境、とくにポーランドとの国境線を一時的なものとみなし、大戦前の旧国境回復をめざす立場を明らかにしていた。1921年3月、オーバーシュレジエン地域で帰属を決定する住民投票が実施された。過半数を超える6割がドイツ帰属を表明したにもかかわらず、有力な鉱物資源地域を失うことをおそれたポーランド側は武装蜂起で抵抗した。翌年の国際調停の結果、同地域でもっとも重要な炭鉱産出地帯を含む部分がポーランド側に編入された。
この決定はドイツ側の東部国境改定意欲をいっそう刺激した。22年に開催されたヨーロッパ経済復興会議(ジェノヴァ会議)の際、ドイツがヴェルサイユ体制下で疎外されていたソヴィエト=ロシアと国交を回復し、相互に賠償請求を放棄するラパロ条約 Rapallo を結んで、国際社会を驚かせたのも、ドイツの修正主義外交の一環であった。