ロンドン四国条約 A.D.1840〜
第2次エジプト=トルコ戦争の収拾のために開かれたロンドン会議(1840)の結果、イギリス・ロシア・プロイセン・オーストリアの4国が結んだ条約。ムハンマド=アリーのシリア領有が阻止され、これによりフランスのエジプトへの影響力がそがれ、ロシアの南下政策も後退した。
ロンドン四国条約
ロンドン会議(1840)の結果、イギリス・ロシア・プロイセン・オーストリアの4国が結んだ条約。ムハンマド=アリーのシリア領有が阻止され、これによりフランスのエジプトへの影響力がそがれ、ロシアの南下政策も後退した。
アジア諸地域の動揺
オスマン帝国支配の動揺とアラブのめざめ
ムハンマド=アリー朝
ムハンマド=アリーは、このような遠征の成功によって自信を深め、1824年には、スルタンの要請に応えて、ギリシア独立戦争の鎮圧のためにペロポネソス半島へ出兵した。31年にはこの出兵の代償として約束されていたシリアの領有を要求して、シリアに遠征し、オスマン軍を破って北上し、西アナトリアまで侵入した。あわてたオスマン帝国側は、ロシア、そして英・仏の介入を要請し、33年キュタヒヤ条約 Kütahya を結び、ムハンマド=アリーにシリアの領有を認めた。39年には、オスマン帝国からの完全独立を求めて再び戦火が切られ、エジプト海軍はイスタンブルに迫った。1840年イギリス・ロシアなどがロンドン四国条約を結んでこれに介入し、英軍に敗れたムハンマド=アリーは条約の要求をのみ、総督職の世襲権とひきかえにシリアから撤退し、兵力は大幅に削減された。列強に対するこの敗北によっって、ムハンマド=アリーの富国強兵策は挫折し、また貿易の国家独占を改め、国内市場を解放することとなった。