ヴェルフ家 (9世紀〜19世紀)
中世の神聖ローマ帝国で皇帝位を争った有力なドイツの諸侯。ヴェルフェン家(Haus Welfen)とも呼ばれる。初期中世バイエルンに発し、その分家がユーラブルグント王国の王となった。さらに初期ヴェルフ家の断絶後、その跡を継いだヴェルフ=エステ家(ヴェルフェン=エステ家)が勢力を誇り、さらに分家であるブラウンシュヴァイク=リューネブルク家からイギリスのハノーヴァー王家が出ており、フェラーラとモデナのヴェルフ家が近代まで続いた。歴史に大きな足跡を残したのがヴェルフ=エステ家で、ザーリアー朝、ホーエンシュタウフェン朝と帝位を争ったが、神聖ローマ皇帝となったのはオットー4世のみだった。叙任権闘争におけるゲルフ(教皇党)とはこの家を指す。
ヴェルフ家
歴史
初期ヴェルフ家
ヴェルフ家が歴史に最初に顔を出すのは9世紀初めのことである。ヴェルフ家のシュッセンガウ伯ヴェルフはバイエルンの有力貴族であり、その娘ユーディトはカロリング朝のルートヴィヒ1世(フランク王)に嫁いでいた。ルートヴィヒ1世(フランク王)は817年に帝国整序令を発し、長男ロタール1世にイタリア王国(中世)と帝位を、次男ピピンにアクィタニア(アキテーヌ地域圏)を、三男ルートヴィヒ2世(東フランク王)にバイエルンを与えると決めていた(以上3人の息子はユーディトの子ではない)。
ところが823年にユーディトが四男カール(シャルル2世(西フランク王))を生み、ヴェルフ家は彼にも領土を要求する。ルートヴィヒ1世もこれに応えてカールにアレマニア、アルザス、ブルグント王国など広大な領域を与えることに決めたため、カロリング朝は親子兄弟の相続を巡る内戦に陥ることとなった。この内戦は843年のヴェルダン条約で決着し、この時既に亡くなっていたピピンを除く3兄弟がフランク帝国を分割することとなった。
ユーラ・ブルグンドのヴェルフ家
シュッセンガウ伯ヴェルフの直系の子孫はバイエルンやシュヴァーベンに勢力を誇ったが、ヴェルフの子コンラート1世の次男コンラート2世の家系はブルグント地方で勢力を拡大した。9世紀末、東フランク王でイタリア、帝位、西フランクをも束ねフランク王国を再統一したカール3世(フランク王)が甥のアルヌルフ(東フランク王)の反乱により廃位されると、フランク王国は混乱に陥った。この混乱に乗じ、888年、コンラート2世の息子のユラ伯ルドルフ1世(ブルグント王)がジュラ(ユラ)山脈以北のブルグントを束ね、ブルグント王国(別名ユーラブルグント王国)を建国した。ユラ山脈以南にはアルル伯ウーゴ(イタリア王)が割拠し、キスユラブルグント王国を建国した。
ルドルフ1世の息子ルドルフ2世(ブルグント王)はイタリアに積極的に介入し、922年にはイタリア王を称した。また、933年にはキスユラ・ブルグント王国に侵攻してこれを併合、アルル王国を建国して首都をアルルに置いた。
しかしルドルフ2世の孫ルドルフ3世(ブルグント王)には子供がなく、1032年の彼の死によりユーラ・ブルグントのヴェルフ家は断絶した。その王位はルドルフ3世の姉のギーゼラがハインリヒ2世(神聖ローマ皇帝)の母親に当たるため、神聖ローマ皇帝に相続され、以後ブルグント王位は歴代皇帝が称することになった。
ヴェルフ=エステ家
バイエルンのヴェルフ家も1055年のケルンテン公ヴェルフ3世の死と共に断絶した。ヴェルフ3世の姉のクニグンデは9世紀から続くロンバルディアのエステ辺境伯アルベルト・アッツォ2世・デステと結婚していたため、バイエルンのヴェルフ家はエステ家に相続されることになった(このためヴェルフ=エステ家(Haus Welf-Este)、またはヴェルフェン=エステ家(Haus Welfen-Este)ともいう)。
ヴェルフ=エステ家は1070年にクニグンデとアルベルト・アッツォ2世・デステの次男ヴェルフ4世がバイエルン公(ヴェルフ1世(バイエルン公))となってドイツに基盤を築いた。子のヴェルフ5世(肥満公)(ヴェルフ2世(バイエルン公))はハインリヒ4世(神聖ローマ皇帝)と対立し、叙任権闘争においてローマ教皇と結び教皇派のトスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサと結婚したため、教皇派はヴェルフ(ゲルフ)と呼ばれるようになる。しかし、ヴェルフ5世(ヴェルフ2世(バイエルン公))は子がなく弟のハインリヒ9世(バイエルン公)(黒公)がその後を継いだ。
ザーリアー朝が断絶すると、ハインリヒ9世(バイエルン公)の長男でバイエルン公を継いだハインリヒ10世(バイエルン公)はホーエンシュタウフェン家のコンラート3世(神聖ローマ皇帝)と帝位を争った。1140年のヴァインスベルクの戦いの「掛け声」からヴェルフ派をヴェルフ、ホーエンシュタウフェン派をウィーベリンと呼ぶようになり、これがイタリアに伝わり教皇派と皇帝派(ゲルフ対ギベリン)となる。
ハインリヒ3世(ザクセン公)はザクセン公、バイエルン公を兼ね、舅のヘンリー2世(イングランド王)と結び大勢力を誇ったが、フリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)との争いに敗れ、ノルマンディーへ亡命している。ザクセンとバイエルンは没収され、それぞれアスカーニエン家のベルンハルト3世、ヴィッテルスバッハ家のオットー1世(バイエルン公)に与えられた。
ハインリヒ3世(ザクセン公)の嫡男オットー4世(神聖ローマ皇帝)はハインリヒ6世(神聖ローマ皇帝)の死後、ハインリヒ6世(神聖ローマ皇帝)の弟で、オットー4世(神聖ローマ皇帝)の岳父でもあるフィリップ(神聖ローマ皇帝)と皇帝位を争った。当初形勢は不利だったが、フィリップが暗殺されたために念願の皇帝となった。しかし、インノケンティウス3世(ローマ教皇)と対立し(この時はヴェルフ派が皇帝派となり、ホーエンシュタウフェン派が教皇派となっている)破門され、1214年のブーヴィーヌの戦いに敗れ、フリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝)に皇帝位を奪われ、1218年に失意のうちに没した。
ちなみに、オットー4世(神聖ローマ皇帝)の兄ハインリヒ5世(ライン宮中伯)はライン宮中伯(プファルツ系ヴェルフェン家)となっていたが、1214年に家督を譲った子のハインリヒ6世(ライン宮中伯)が嗣子がないまま急逝したため、姻戚関係にあるルートヴィヒ1世(バイエルン公)(オットー1世の子)が相続し、ヴィッテルスバッハ家が代々世襲していった。
ハノーファーのヴェルフ家
オットー4世(神聖ローマ皇帝)の弟・ヴィルヘルム(リューネブルク公)の子オットー1世(ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)は、子のないオットー4世(神聖ローマ皇帝)の遺領も相続してブラウンシュヴァイク=リューネブルク公を称した。この家系はブラウンシュヴァイク=リューネブルク家として、しばしば領土の分割を重ねながら続いた。
14世紀にはフリードリヒ1世(ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)がルクセンブルク家のヴェンツェル(神聖ローマ皇帝)の対立王になっている。また、17世紀から18世紀にはハプスブルク家、ロマノフ家(ロシア)、ホーエンツォレルン家(ドイツ)、オルデンブルク家(デンマーク)と縁組を結ぶなど、勢力を増している。
1692年、その分枝に属するカレンベルク侯(ハノーファー公)エルンスト・アウグスト(ハノーファー選帝侯)が選帝侯となった。子のゲオルク・ルートヴィヒは1714年にイギリス王位を獲得(ジョージ1世(イギリス王))してハノーヴァー朝を開き、その血統は現在まで続いている。
ハノーファー公国は1814年にハノーファー王国となり、1837年にヴィクトリア(イギリス女王)の即位により同君連合を解消した。ハノーファー王国は1866年にプロイセン王国に併合されたが、最後のゲオルク5世(ハノーファー王)の孫エルンスト・アウグスト3世(エルンスト・アウグスト(ブラウンシュヴァイク公))に、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家の別系統からのブラウンシュヴァイク公国の継承が認められ、その家系は現在まで続いている。
フェッラーラとモデナのヴェルフ家
バイエルンのヴェルフ家のクニグンデとエステ家のアルベルト・アッツォ2世・デステの結婚により、ヴェルフ家とエステ家は合体した。しかしその権力は長男のヴェルフ4世がバイエルン公となる一方で、次男フォルコ1世がエステ辺境伯となることで、ドイツとイタリアに分割されることになる。フォルコ1世の子孫は後にフェラーラ公、モデナ公となった。
フェラーラとモデナのヴェルフ家は、1796年、エルコレ3世・デステ(モデナ公)がフランス革命政権に追放されて断絶した。エルコレ3世・デステ(モデナ公)には息子はいなかったため、ウィーン会議でモデナ公国が再興された際、公位はエルコレ3世の娘マリーア・ベアトリーチェ・デステとハプスブルク=ロートリンゲン家のフェルディナント・カール・アントン(フェルディナント・フォン・エスターライヒ)の息子で外孫に当たるフランチェスコ4世(モデナ公)が相続することとなり、オーストリア=エステ大公と称するようになった。
参考 Wikipedia