丙寅洋擾 (ピョンイニャンヨ)
1866年10月、丙寅教獄(フランス人宣教師の処刑)を契機として、李氏朝鮮とフランス帝国との間で発生した戦い。
場所: 朝鮮半島
交戦: フランス 対 李氏朝鮮(興宣大院君)
結果: 朝鮮軍の勝利
丙寅洋擾
興宣大院君
李氏朝鮮第26代国王および初代皇帝・高宗(朝鮮)の父。1864年1月から1873年11月まで朝鮮の国政を司っていた。
興宣大院君は安東金氏の勢道政治を打破し、国内改革を行っていたが、迫り来る西洋の列強諸国に対する対外策はあくまでも鎖国・攘夷であり、決して国交を結ぼうとしなかった。
また、カトリックの弾圧を繰り返し行った。1866年にフランス人神父らを殺害(丙寅邪獄)すると、その報復としてフランス艦隊が軍艦7隻でもって江華島を占領したものの、これを追い払った(丙寅洋擾)。
また、同時期に通商を求めてきた商船ジェネラル・シャーマン号も焼き討ちして沈めてしまう(ジェネラル・シャーマン号事件)。この抗議として1871年、アメリカ軍は賠償と通商を求め、軍艦5隻でもって江華島を占領するが(辛未洋擾)、大院君は交渉に応じず、アメリカ軍も1か月で引き上げざるを得なかった。