中国分割
日清戦争後に激化した、帝国主義列強による中国の領土・利権の獲得競争。形態には、勢力範囲の設定、借款によるさまざまな利権の獲得、用地の租借などがあった。
中国分割
日清戦争後に激化した、帝国主義列強による中国の領土・利権の獲得競争。形態には、勢力範囲の設定、借款によるさまざまな利権の獲得、用地の租借などがあった。
帝国主義とアジアの民族運動
世界分割と列強対立
同盟外交の展開と列強の二極化
1902年、イギリスは、中国東北地方に大軍を駐留させて朝鮮半島へ圧力を行使しようとするロシアの動きを警戒する日本との間に日英同盟を結んだ。イギリスにとっては、この同盟がロシアの太平洋岸進出を牽制し、ロシア・フランス・ドイツ3国による中国分割を阻止することが期待された。しかし、1904年、日露戦争が勃発すると、日英同盟・露仏同盟のためにイギリスとフランスも戦争に巻き込まれる可能性が生じた。
アジア諸国の改革と民族運動
列強の中国侵略
日清戦争での敗北は、大国として恐れられていた清朝が弱体であることをさらけだした。これをみた欧米諸国や日本は、租借地の拡大や鉱山採掘・鉄道敷設の権利など、中国に対する野心をいよいよ露わにし、きそって自己の勢力圏の拡張に乗りだしていった。こうして1890年代後半から、列強の中国侵略はいちだんと激しさを増し、列強による「中国分割」という情勢のなかで、中国の半植民地は、新たな段階に入っていった。
1891年より、ロシアはシベリア平原を横断してウラジヴォストークにいたるシベリア鉄道の建設に着手し、極東での南進の機をうかがっていた。下関条約で、日本が遼東半島を獲得すると、ロシアはフランスとドイツを誘ってこの地方を清に返還させた。これが三国干渉(1895)である。ロシアはこの代償として、シベリア鉄道に接続して東北地方(満州)経由でウラジヴォストークにいたる東清鉄道の敷設権を獲得した ❶ 。
また1898年、ドイツが宣教師殺害事件を口実に、清朝から膠州湾(山東半島)の租借権を獲得すると、ロシアも遼東半島の旅順に艦隊を派遣して、旅順・大連の租借を認めさせ、念願の不凍港を手に入れた。こうしてロシアは、清朝の東北地方を勢力圏とし、さらに朝鮮半島に対する圧力をも強めることになった。これは朝鮮半島の利権独占を意図する日本や、北京・奉天(南満州の中心都市)間を結ぶ京奉鉄道の敷設を進めていたイギリスに大きな警戒感を呼びおこし、極東情勢の緊張を高めることとなった。
ドイツとロシアの強引な租借の成功をみたイギリスは、これに対抗して、1998年に香港島対岸の九竜半島 ❷ と山東半島東端の軍港威海衛を租借し、フランスは1899年に広州湾を租借した。また租借地のほかにも、列強は鉄道敷設権や鉱山採掘権を独占的に保持するそれぞれの勢力圏を設定していった。こうして1899年ころまでに、ロシアは東北地方、ドイツは山東半島、イギリスは長江流域、フランスは華南の両広(広東・広西)地方、日本は台湾の対岸にあたる福建地方というように、列強の勢力範囲がほぼ定まっていった。
同じころ、アメリカでは共和党のマッキンリー大統領による帝国主義的膨張政策が本格的に開始され、アメリカ=スペイン戦争(米西戦争 1898)でフィリピンとグアム島を獲得し、太平洋から中国への進出の気運が高まっていた。このためアメリカは、1899年に国務長官ジョン=ヘイ John Hay (1838〜1905)の名で門戸開放宣言を発表して、中国市場の門戸開放と列国の機会均等(中国市場の門戸は諸外国に平等に開かれるべきであり、特定国による特殊権益の独占は不公正であること)の原則を提唱し、翌年には中国の領土保全を唱えた。これは、中国進出に遅れをとったアメリカが、先行する列強を牽制しながら、中国市場への割りこみを意図したものであった。この宣言は、アメリカが列強に対して希望を表明したものにすぎなかったが、列強もこれに一応賛意を表したため、中国分割の動きはいったん緩和され、アメリカ資本は中国市場への進出を果たすことができた。( アメリカ合衆国)
近代国家の成立
日露戦争と国際関係
列強の中国分割
19世紀末期、日本がようやく近代国家を形成したころ、欧米先進資本主義諸国は早くも帝国主義段階に突入しようとしていた。諸列強は生産物の販路を海外に広げ、また、直接に資本を輸出して利益を収めるためにこぞって積極的な対外進出政策をとり、植民地獲得を競い合ったが、その矛先は、アジア・アフリカなどの発展途上諸地域に向けられた。
列強の世界政策
イギリスはすでに1875年にスエズ運河株を買収し、1877年にはヴィクトリア女王がインド皇帝に就任してインドを完全に自国の領土とし、1880年代にはビルマ(現、ミャンマー)を併合するなど、ロシアと対立しつつ勢力を東へ仲ばすー方、フランスと対立しつつアフリカ分割を進めた。フランスは1884年、清仏戦争をおこして翌年にベトナムを保護国とし、1887年には仏領インドシナ連邦を形成した。ドイツは、1870年代から80年代に南太平洋の島々を植民地としたが、1890年にはそれまでヨーロッパの現状維持につとめていたビスマルク( Bismarck, 1815〜98)が失脚して、ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) ( WilhelmII、 在位1888〜1918)の親政のもとに、積極的な世界政策を進めた。ロシアはツアーリの専制のもとに、1877年、露土戦争でオスマン帝国を撃破してバルカンに南下するとともに、1890年代にはシベリア鉄道の建設を進めるなど、アジアヘも進出を続けた。また、アメリカも遅ればせながら、1860年代末、太平洋横断の定期航路を開いて東アジア貿易をイギリスと競い、1898年にはハワイを併合し、さらにスペインと戦って(米西戦争)、フィリピンを植民地とした。
日本にとって、とくに脅威だったのはロシアの動きであった。日本は日清戦争によって「朝鮮の独立」を清国に認めさせ、”利益線”たる朝鮮から清国の勢力を排除することに成功したが、三国干渉による日本の威信低下に乗じて、ロシアが朝鮮に勢力を伸ばし、1895(明治28)年7月、親露派政権がつくられた。同年10月、日本公使三浦梧楼(1846〜1926)や日本の軍人・壮士らが中心となり、大院君を擁立してクーデタを強行し、閔妃政権を打倒して親日派政権を樹立させた(閔妃殺害事件)。しかし、翌年2月、三たび政変がおこって朝鮮国王はロシア公使館に移り(露館播遷)、ロシアを後ろ盾とした政権が発足し、多くの親日派要人が処刑された。その後、日露両国は山県・ロバノフ協定、西·口ーゼン協定などを結んで朝鮮(韓国) ❶ における利害の調整をはかったが、韓国を勢力下に収めようとする日本の政策は達成されず、韓国問題をめぐる日露の対立はしだいに深まった。
ー方アジアの大国であった清国が日清戦争に敗れて弱体ぶりを暴露すると、列強の目はいっせいに清国に注がれることになった。ドイツが宜教師殺害事件をきっかけに、1898年に山東半島の膠州湾を租借すると、続いてロシアが、三国干渉によって日本が清国に返還した遼東半島の旅順・大連などを、イギリスが威海衛·九竜半島を、フランスは広州湾をそれぞれ租借し、アメリカも1899年、国務長官ジョン=ヘイ( John Hay, 1838〜1905)が清国に対する門戸開放・機会均等・領土保全を宣言して、列強の清国進出に割り込む姿勢を示した。列強はこれらの租借地を根拠地として鉄道敷設権や鉱山採掘権などを得て、清国での権益を拡大していった ❷ 。
日清戦争終結から3年後、列強がこぞって中国を分割する様を描いています。この年、各国による租借、占領、割譲などが次々に行われました。図の左からイギリスのヴィクトリア女王、ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) 、ロシアのニコライ2世、フランスの象徴である女性像マリアンヌ、そして日本を象徴するサムライ。背後には清国人がなすすべもなく手を上げています。 参考: おもしろい世界の風刺画 (OAK MOOK)