二宮尊徳 にのみやそんとく (金次郎 A.D.1787〜A.D.1856)
幕末の農政家。相模の農民出身。勤勉に働いて没落した家を再興し、諸藩の農村の復興を手がけて手腕を発揮し、1842年、水野忠邦に抜擢されて幕臣となり、農村復興に努めた。勤労・倹約を中心とする事業法が報徳仕法で、その活動は彼の死後も報徳運動として続けられた。
二宮尊徳
幕末の農政家。相模の農民出身。勤勉に働いて没落した家を再興し、のちに幕府・諸藩に迎えられて農村復興に努める。勤労・倹約を中心とする事業法が報徳仕法で、その活動は彼の死後も報徳運動として続けられた。
二宮尊徳は、諸藩の農村の復興を手がけて手腕を発揮し、1842年、水野忠邦に抜擢されて幕臣となり、農村復興に努めた。勤労・倹約を中心とする事業法が報徳仕法で、その活動は彼の死後も報徳運動として続けられた。
農村復興のアドバイザー
農村復興指導者。相模国の農家に生まれ、没落した生家を独力で復興させる。各自にふさわしい生活の支出限度を決め、余剰分は将来に備え貯えるか他人に譲る、という報徳仕法を創出。小田原藩に登用され、さらに天領、旗本領、大名領など関東地方各地の農村復興を指導した。
幕藩体制の動揺
幕府の衰退
経済近代化と雄藩のおこり
農村の荒廃に対しては、小田原藩領・下野桜町領、常陸や日光山領などで行われた二宮尊徳(金次郎、1787-1856)の報徳仕法 ❷、下総香取郡長部村で行われた大原幽学(1797-1858)の性学などのように、荒廃した田畑を回復させ農村を復興させようとする試みがある。しかし、すでに商品生産や商人資本のもとで賃金労働が行われ始めている段階では、このような方法で資本主義の胎動をとめることはできなかった。これに対して、商品生産や工業の発展に積極的に対応し、それを取り込もうとしたのが、藩営専売制や藩営工場の設立であった。
❶ 織屋:生産者に技術を教える作業場といわれる。
❷ 報徳仕法:尊徳司法ともいうが、一方で領主の年貢収奪を制限し、他方で百姓には勤倹力行の生活を説き、生産条件を整備しつつ荒廃した田畑を再開発し、農村を復興させようとした。