五代十国時代地図 五代十国 唐末五代の社会
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五代十国


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五代十国 (907年〜960年)
中国の唐(王朝)滅亡から北宋の成立までの間に黄河流域を中心とした華北を統治した5つの王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代である。

五代十国

五代十国
東アジア世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

東アジア世界の形成と発展

東アジア諸地域の自立化

唐末五代の社会

8世紀初めより、唐は異民族に備えるため、辺境に節度使を設置したが、 安史の乱後、反乱に対処するために内地にも多く配置するようになった。

それまでの辺境の十節度使に加えて、安史の乱とその後には数州から十数州を領域とする30余の節度使が新設され、長安や洛陽をのぞくほぼ中国全土がいずれかの節度使に属するようになった。

これらの節度使は、 黄巣の乱以降、中央政府の弱体化に乗じ、私兵をたくわえて各地に割拠し、軍事権ばかりでなく行政権や財政権も掌握して、藩鎮はんちんと呼ばれる強力な地方勢力を形成し、半独立化した。このような武人(軍人)の台頭は、武力による専制的な 武断政治をもたらし、貴族の政治的・社会的基盤を奪って、彼らを完全に没落させていった。
一方、貴族にかわって社会の支配階層として登場してきたのが、 佃戸制でんこせいに経済的基礎を置く 新興地主層である。彼らは、宋代になると形勢戸けいせいこと称され、官僚の供給基盤となり、官僚を出した家は、官戸かんこと称され、あらたな支配階級である士大夫階級の母体となった。

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五代十国
五代十国の興亡 ©詳説世界史研究

唐末、黄巣の乱を鎮圧するのに功のあった節度使出身の朱全忠しゅぜんちゅう(太祖)は、907年、唐を倒して後梁をたて、大運河と黄河の接点にある汴州べんしゅう開封かいほう)に都を定めた。以後、河北には後梁・後唐・後晋・後漢(五代)・後周の5王朝が交替し、その他の地方でも節度使が割拠して10国をたて、約50年間の分裂時代が続いた。この時代を五代十国と呼ぶ。

このうち後唐・後晋・後漢(五代)の開祖は、黄巣の乱を機に華北に進出した沙陀部さだぶの出身である。唐末の沙陀部は、西突厥の一部が唐朝に寄付したものにソグド系集団が融合した集団であったと考えられる。
10国とは、前・後蜀・吳(十国)・南唐・越・びん・荊南・楚・南漢・北漢の総称である。
江南諸国の発展

十国のうち、呉を倒して建国した南唐は、金陵(現南京)に都をおき、一時江南の大部分を支配して文化も栄えた。その第2皇帝李煜りいく(後主)は詞(漢文で書かれた詩の一種で、節をつけて歌われた)の名手として知られる。
杭州にあった呉越は、平安時代の日本にも使節を送っている。広州に都をおいた南漢は、南海貿易の中心であった。山西省にあった北漢は、後漢(五代)の後裔で、遼の援助をうけた。
前蜀・後蜀は四川、荊南は華北、閩びんは福建、楚は湖南にあった。荊南は、小国であったが商業で繁栄し、その首都江陵には最大の茶市があった。楚も茶の産地で、養蚕業もさかんであり商人を優遇した。

唐末五代の社会 – 世界の歴史まっぷ

詳説世界史研究

五代十国

五代
国家後梁後唐後晋後漢(五代)後周
首都開封府洛陽開封府開封府開封府
君主
*初代
*最期
3帝
朱全忠
朱友貞
4帝
李存勗
李従珂
2帝
石敬瑭
石重貴
2帝
劉知遠
劉承祐
3帝
郭威
柴宗訓
成立907年923年936年947年951年
滅亡923年937年947年951年960年
開始907年唐を倒して朱全忠により建国。
滅亡960年趙匡胤により後周滅亡。恭帝から禅譲を受けて宋を立てる。
十國
国家吳(十国)南唐吳越北漢
首都江都府江寧府西府長楽府太原府
君主
*初代
*最期
4主
楊行密
楊溥
3帝
李昪
李煜
5王
錢鏐
錢俶
6主
王審知
王延政
4帝
劉崇
劉継元
成立902年937年907年909年951年
滅亡937年975年978年945年979年
国家前蜀後蜀荊南南漢
首都成都府成都府江陵府潭州興王府
君主
*初代
*最期
2帝
王建
王衍
2帝
孟知祥
孟昶
5主
高季興
高継沖
6王

馬希崇
4帝
劉龑
劉鋹
成立903年934年924年927年917年
滅亡925年965年963年951年971年
開始907年朱全忠が唐朝を倒して後梁をたてる。
滅亡979年宋(北宋)の趙匡胤は北漢を滅ぼし統一に成功。
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