元寇 蒙古襲来の侵攻ルート地図
蒙古襲来の侵攻ルート地図 ©世界の歴史まっぷ
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元冦(蒙古襲来、文永の役・弘安の役)

13世紀後半に元朝がおこなった2度の日本遠征。蒙古襲来(元寇、文永の役・弘安の役)。1274年の文永の役は元・高麗の連合軍81年の弘安の役は元・高麗・旧南宋の連合軍が侵攻したが、いずれも敗退した。

元寇

日本遠征

13世紀後半に元朝がおこなった2度の日本遠征。蒙古襲来(元寇、文永の役・弘安の役)。1274年の文永の役は元・高麗の連合軍81年の弘安の役は元・高麗・旧南宋の連合軍が侵攻したが、いずれも敗退した。

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蒙古襲来

東アジアと日本

鎌倉幕府が誕生し成長していたころ、大陸のモンゴル(蒙古)高原では、チンギス・ハンに率いられたモンゴル諸部族の遊牧民族国家が発展していた。このモンゴル帝国はまたたくまに西アジアを征服し、東は中国北部の女真族の金朝を滅ぼし、朝鮮半島の高麗を服属させた。

平氏政権のころから日本と交渉があった中国王朝は、金によって南に追われていた南宋である。南宋からは、唐物と呼ばれる書籍・香料・薬品・陶器が輸入され、大量の宋銭ももたらされ、日本からは金・水銀・硫黄・木材などが輸出されていた。初めのうち鎌倉幕府は対外貿易に無関心であったが、政治が安定するとともに日宋貿易への関心を強めた。やがて国内でも港湾・航路などが整えられると、日宗間を結ぶ唐船の往来は頻繁となり、大量の唐物が鎌倉にもたらされた。

元冦

13世紀後半、モンゴル帝国の皇帝となったチンギス・ハンの孫フビライは、都を大都(北京)に写して国号をと改め、南宋を圧迫し、日本に対しても朝貢を要求してきた。度重なるこの要求に、幕府の執権北条時宗が無視して答えなかったため、フビライは日本侵攻を決意した。

1274(文永11)年、元は徴発した高麗の軍勢を合わせて対馬・壱岐をおかし、九州北部の博多湾に上陸した。太鼓やどらを打ち鳴らし、毒を塗った矢や火薬を込めた武器を手にして、集団で押し寄せた。この元軍の戦法に、一騎打ちを得意とする御家人たちは苦戦の連続で、このため日本軍の主力は太宰府に退いたが、元軍は海を渡っての不慣れな戦いによる損害や内部対立から、兵を引き上げた(文永の役)。

2度目の襲来は1281(弘安4)年のことである。この間に南宋を滅ぼしたフビライは、限定国の威信をかけて全開に数倍する大軍で博多湾に押し寄せた。しかし元軍は、博多湾一帯に築かれた防護用の石塁いしるいと、大量に動員された武士の抵抗に悩まされた上、そこに大暴風雨もあり、大損害を受けて大敗した(弘安の役)。この2度にわたる元軍の襲来を元冦蒙古襲来)という。

文永の役と弘安の役について、当時日本側は「蒙古襲来」「蒙古合戦」「異国合戦」などと呼んだ。一方、「元冦」の語は、水戸藩が編纂した『大日本史』で用いられ、江戸時代後期における国学の発達とともに広まった。
明治以降、国家主義が高揚すると「元冦」の語は教科書の中に定着し、第二次世界大戦には「神風」などの語とともに流行した。しかし、戦後は次第に使われなくなり、近年は「蒙古襲来」「モンゴル襲来」が定着するようになった。

元の2度に渡る失敗の理由は、経験の乏しい海を越えての戦いと、元に征服された高麗や南宋などの人々の抵抗にあった。しかし日本軍の勝利の原因には、それにも増して、まずこの大軍をよく防いだ御家人をはじめとする武士の活躍があげられる。
幕府は3度目の襲来に備えて、九州地方の御家人に課していた非御家人の武士も動員する体制をきずくなど、特に西国の支配力を強化し、九州の政務などを行う鎮西探題ちんぜいたんだいも置いた。

蒙古襲来絵詞

蒙古襲来 元冦
蒙古襲来絵詞(部分) (三の丸尚蔵館蔵) ©Public Domain
文永の役において、矢が飛び交い、てつはうが炸裂する中をモンゴル帝国連合軍へ斬り込んでいく竹崎季長と応戦・逃亡する蒙古兵

『蒙古襲来絵巻(蒙古襲来絵詞)』は、肥後国の御家人竹崎季長たけざきすえなががこの合戦でいかに戦ったかを描かせた絵巻であり、同時に季長がその時の恩賞を求めて、獲得するまでの苦労も描かれている。
合戦は恩賞によって、その労が報われ、また自弁の武装・費用も補われる。恩賞無くしては合戦はおぼつかない。文永の役では、日本軍は苦戦の連続だった。「てつはう」と呼ばれる火薬を利用した武器を使い、集団戦を挑む敵軍に悩まされた。季長はこの時、さきがけの功を急ぎ、「弓矢の道、先をもって賞とす、ただ駆けよ」と叱咤して敵陣に突っ込んだのである。だが蒙古軍の攻撃にあい、季長等は馬を射られて、危うく死にかけたのであった。

軍功は合戦の大将軍(総指揮官)に報告され、さらに大将軍から幕府の侍所に注進されたはずであったが、季長に恩賞の伝達がない。やむなく鎌倉に恩賞を求めていくこととなり、馬鞍を売って費用をつくった。訴訟が叶わないならば、出家して戻ってこない、と決意を固めて鎌倉にやってきた。しかし季長の訴えはなかなか取り上げられなかった。ついに直訴を試みて恩賞奉公安達泰盛の屋敷に談判におよんだ。
このとき迫真の弁舌により季長の訴えは認められ、肥後国海東郷(現熊本県宇城市)を拝領した。当日、恩賞を得たのは120余人におよんだが、季長のみは恩賞奉公の手から直接に賜ったという。季長がこのことにいかに感激したかは、絵巻を描かせた直接の動機がこの一件にあったことから知ることができる。

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