六義園
六義園 画像出典:Wikipedia

六義園


Previous Post

Next Post

六義園 りくぎえん

東京都文京区本駒込六丁目にある都立庭園。5代将軍綱吉の側用人であった、柳沢吉保の江戸藩邸に自ら設計・指揮して平坦な武蔵野の一隅に池を掘り、丘を築き、7年の歳月をかけて造り優れた廻遊式庭園。明治時代に岩崎弥太郎氏(三菱創設者)の所有となり、昭和13年に東京市に寄付された。昭和28年、国の特別名勝に指定。

六義園

六義園は造園当時から小石川後楽園とともに江戸の2大庭園に数えられておりました。元禄8年(1695年)、5代将軍・徳川綱吉より下屋敷として与えられた駒込の地に、柳沢吉保自ら設計、指揮し、平坦な武蔵野の一隅に池を掘り、山を築き、7年の歳月をかけて「回遊式築山泉水庭園」を造り上げました。六義園は吉保の文学的造詣の深さを反映した繊細で温和な日本庭園です。庭園の名称は、中国の古い漢詩集である「毛詩」の「詩の六義」、すなわち風・賦・比・興・雅・頌という分類法を、紀貫之が転用した和歌の「六体」に由来します。庭園は中の島を有する大泉水を樹林が取り囲み、紀州(現在の和歌山県)和歌の浦の景勝や和歌に詠まれた名勝の景観が八十八境として映し出されています。明治時代に入り、岩崎弥太郎氏(三菱創設者)の所有となった当園は、昭和13年に東京市に寄付されて一般公開されることになりました。昭和28年3月31日に国の特別名勝に指定されました。

参考 庭園へ行こう。

幕藩体制の展開

元禄文化

元禄美術

元禄期の美術・建築

庭園後楽園(岡山)・後楽園(水戸藩邸)・六義園
絵画土佐光起春秋花鳥図屏風
住吉如慶東照宮縁起絵巻
住吉具慶洛中洛外図巻
尾形光琳紅白梅図屏風・燕子花図屏風
菱川師宣見返り美人図
建築東大寺大仏殿・善光寺本堂

庭園の分野では、元禄期に将軍が大名屋敷を訪れる御成おなりの回数が増え、大名側も屋敷に趣向をこらした庭園づくりをするようになった。柳沢吉保の屋敷である六義園りくぎえんは、優れた廻遊式庭園である。小石川の水戸藩邸の後楽園朱舜水しゅしゅんすいの影響がみられ、明風の石造りの橋などがみごとである。また国元でも、岡山の後楽園のように日本3名園の一つに数えられる廻遊式庭園がつくられた。以上の現存する庭園のほか、残された絵図や発掘調査によって、失われた大名邸の庭固の役割と機能が注目されるようになった。

明治の初年には三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎が六義園を購入、維新後荒れたままになっていた庭園に整備が施され、このとき周囲が今日見る赤煉瓦の塀で囲まれた。その後は関東大震災による被害もほとんど受けず、1938年(昭和13年)には東京市に寄贈され、以後一般公開されるようになった(有料)。東京大空襲の被害を受けることもなく、造園時の面影を残したまま今日に生き延びた六義園は、1953年(昭和28年)に特別名勝に指定されている。

参考 公式ホームページ

広告
Previous Post

Next Post