劉邦 (高祖) B.C.247〜B.C.195
漢の建国者。江蘇省沛市の農民の出身。陳勝・呉広の乱を機に挙兵し、咸陽を落とした。前206年漢王に封じられるが、その後項羽と対立し本格的な楚漢の戦いが始まった。何度も危機におちいるが、家臣に救われ、前202年垓下に項羽を破り、漢の初代皇帝(高祖)となった。統一後は臣下を粛清し、帝国の基礎を固めた。
劉邦
漢の建国者。江蘇省沛市の農民の出身。陳勝・呉広の乱を機に挙兵し、咸陽を落とした。前206年漢王に封じられるが、その後項羽と対立し本格的な楚漢の戦いが始まった。何度も危機におちいるが、家臣に救われ、前202年垓下に項羽を破り、漢の初代皇帝(高祖)となった。統一後は臣下を粛清し、帝国の基礎を固めた。
部下に恵まれ人心を掌握して勝利
中流農家出身の無頼漢・劉邦は、任侠者から警史となった。陳勝・呉広の乱に乗じて約3000人で発起。項羽に比べて貧弱な部隊であったが秦の首都・咸陽まで進軍し1200た。だが項羽に先んじたため項羽は激怒。謝るしかない劉邦は酒宴を設定し、和議に持ち込んだ。
項羽の軍師・范増に警戒された劉邦は、西方の辺境の地・漢中へ移された。これが「左遷」の語源となった。この時期劉邦は、信臣・蕭何の推薦で、将軍・韓信を得る。「漢王」として人心を掌握、実力をつけていった。項羽の圧政に反発して各地で動乱が起きると、劉邦も出撃を開始。楚漢戦争が始まった。彭城の戦いでは大敗も喫するが、項羽が反乱鎮圧にも東奔西走するなか、劉邦は項羽を徐々に凌ぎ、勝利した。
劉邦は漢王朝を開き、長安に都を置いた。秦王朝の急進的な中央集権制を省み、ゆるやかな「郡国制」を採用。地方有力者を各地の王と認めた。北方民族とも和議を結び、国力充実に務めた。諡が高皇帝であるため、歴史上高祖と呼ばれる。
陝西省にある宮殿遺跡「古漢台」。劉邦が漢王になったとき、この地を足がかりに中国統一に乗り出した。
布衣の身から覇王を滅ぼし皇帝に
青年時代は父の手にもあまる無頼漢だったが、度量の広さで人望を集めた。始皇帝を目撃したとき「男と生まれたからには、あのようになりたいものだ」と漏らしたという。
陳勝・呉広の乱がおこるとともに、群雄の一人に名を連ね、真っ先に関中に入った。項羽により辺境の漢王に封建され、巴・蜀・漢中の3郡を与えられるが、これに不満を抱く劉邦は時期を待って反撃に転じる。ついには項羽を滅ぼし、天下統一を達成した。
劉邦はなぜ天下を取れたのか。一番の理由は人材を適材適所に用いたことによる。武には韓信がいて、文には蕭何、張良がいた。蕭何はもっぱら後方にあって兵卒や兵糧の補給を担当、張良は幕下にあって策略を講じた。韓信を推薦したのも蕭何である。
戦後、劉邦は自分の勝因を分析して、韓信、蕭何、張良の3人はみな人傑であり、自分はこれをうまく使うことができた。だから天下を取ることができたのだと断言している。
皇后・呂雉
劉邦が自らの死期を悟ったとき、「死後どうすればよいのか」と問う皇后・呂雉に対し、「(丞相・相国の)蕭何に任せておけばよい。その次は曹参が良かろう」と言い、更に何度も「その次は?」と聞く呂雉へ「その次は王陵が良いだろうが、愚直すぎるので陳平を補佐とするとよい。だが陳平は頭が切れすぎるから、全てを任せるのは危ない。社稷を安んじるものは必ずや周勃であろう」と言った。そして、なおも「その次は?」と聞く呂雉に「お前はいつまで生きるつもりだ。その後はお前にはもう関係ない」と言っている。
劉邦の死後、太子が即位して恵帝となったが、実権は全て呂雉に握られ、強大な諸侯は全て劉邦に粛清されており対抗できる者もなく呂氏の時代となる。
呂雉は、「中国三大悪女」として唐代の武則天(則天武后)、清代の西太后と共に名前が挙げられる。
参考 Wikipedia
アジア・アメリカの古代文明
中国の古代文明
漢の興起
秦末におこった反乱勢力のなかで、最後まで残ったのは、沛県の庶民出身の劉邦と、楚の貴族出身の項羽である。秦を滅ぼしたのち両者は激しく争い、ついに劉邦は垓下の戦いで項羽を破って中国を統一して皇帝の位につき(高祖)、秦の都咸陽の近くに新都長安を建設し、漢王朝をたてた(前漢)。
高祖(漢)は、秦の制度の多くを受け継いだが、秦が法律に基づいて厳しい政治をおこない、旧諸侯や民衆などの反発を招いて滅亡したことをふまえ、急激な中央集権化をさけて国内をまとめた。また租税・力役を軽減して民衆の生活の安定に努めた。都の長安を中心とする地域は直轄地として郡県制を行い、官吏を派遣して支配したが、東方などの遠隔地には劉氏一族や功臣を諸侯として領土を与える封建制を採用した。これが郡県制と封建制を併用した郡国制である。しかしながら、劉邦と続く呂后(高祖の皇后呂雉)の時代に功臣出身の異姓の諸侯はしだいに滅ぼされていき、諸侯は同姓(劉氏)のものに限られるようになった。
一方、北方のモンゴル高原では、匈奴が冒頓単于のもとで強大になっていた。劉邦は侵入してきた匈奴と白登山(山西省)で戦って破れ、毎年多額の物品を贈るという屈辱的な関係を強いられることになった(白登山の戦い)。
項羽と劉邦
秦末の反乱では多くのものが天下統一をめざしたが、やがて項羽と劉邦の2人が実力者として残った。項羽は楚の名門の家に生まれ、衆にぬきんでた力をもっていた。一方、劉邦は沛の庶民出身で、亭長(警察署長)を勤めたことがあった。劉邦は度量が広く、人材の登用が上手で、個々人の能力を十分発揮させたが、項羽は度量がせまく、激情家で権力におぼれるところがあったといわれる。2人は連合して秦を滅ぼすが、その後、劉邦はたくみなかけひきで項羽を破って自殺させ、天下を統一した。この2人をめぐる抗争は、「鴻門の会」や、項羽の最後を記した「四面楚歌」の場面などで大変有名で、しばしば漢文の教科書などに取り上げられている。
劉邦が登場する作品
項羽と劉邦 King’s War
劉季。江蘇省沛出身、中国史上初の平民出身の皇帝。前漢を建国した皇帝であり、廟号は太祖、諡号は高皇帝である。歴史的には太祖高皇帝、太祖、高祖もしくは高帝と呼ばれている。秦の末期に泗水の亭長の任にあたっていたが、陳勝・呉広に続き、挙兵して沛公と称した。項羽と共に秦と戦い、秦が滅亡すると漢王となった。のちに楚漢戦争で項羽を打ち破り天下を統一した。
前漢皇帝系図
子女
- 皇后 呂雉(のちに光武帝により皇后位・諡号を剥奪される)
魯元公主
恵帝(劉盈) - 妾 曹氏
劉肥(斉悼恵王) - 夫人 戚氏
劉如意(代王→趙隠王) - 姫・皇太后 薄氏(子の即位により皇太后となる。また光武帝により皇后位・諡号を追贈される)
劉恒(代王→文帝) - 姫 趙氏
劉長(淮南厲王)生母の氏名が不詳の子
劉恢(淮陽王→梁王→趙共王)
劉友(河間王→淮陽王→趙幽王)
劉建(燕霊王)