北京条約
A.D.1860〜
アロー戦争の講和条約。天津条約締結後、英仏両国公使の船が砲撃されてアロー戦争が再開。連合軍が北京を占領し清はロシアの仲介により英仏と北京条約を結んで講和した。天津の開港、九竜半島一部をイギリスに割譲、賠償金の増額など追加された。
北京条約
アロー戦争の講和条約。天津条約の確認に加え、次の条項などが追加された。
- 賠償金を600万両から800万両へ増額
- 天津の開港
- 九竜半島南端の市街地をイギリスに割譲
アジア諸地域の動揺
東アジアの激動
アロー戦争
アヘン戦争後も、欧米列強の中国への輸出は、清朝の排外的態度や、閉鎖的で自給自足な小経済圏が地方ごとに分立するという中国の社会経済の特質に阻まれて、期待したほどにはのびなかった。このため、列強はよりいっそうの貿易拡大を求めて条約改定の機をうかがっていたが、たまたま1856年10月、広州でイギリス船籍を主張する小帆船アロー号 Arrow が海賊容疑によって清朝官憲に検問され、中国人乗組員10数名が逮捕されるという事件がおきた(アロー号事件)。イギリスは、事件の際にイギリス国旗が引き降ろされて侮辱されたとして出兵を強行した。フランスのナポレオン3世も、同年広西省でおきたフランス人宣教師殺害事件を口実にしてイギリスに同調、両国が連合して清に開戦し、アロー戦争(1856〜60, 第2次アヘン戦争ともいう)が始まった。英仏連合軍は、広州を占領したのち、北上して天津に迫ったため、1858年、清朝はやむなく屈服して天津条約(アロー戦争)を結んだ。条約は、以下の内容などとし、英仏両国のほか条約改定の趣旨に同調したロシア・アメリカも加えた4カ国との間で結ばれた。
- 各国の公使の北京駐在
- キリスト教の信仰および布教の自由
- 外国人の国内地旅行の自由
- 開港場の増加(新たに10ヶ所設定) ❶
- 賠償金の支払い
しかし、皇帝咸豊帝(位1850〜61)をはじめ、清朝朝廷には排外的空気が強く、条約の細部の調整は遅々として進まなかった。このとき天津条約(アロー戦争)の批准書交換のため、北京に乗りこもうとした英仏両国公使の船が、清軍から砲撃されるとういう事件がおき、戦争が再開された。1860年、英仏連合軍は北京を占領し、円明園の破壊などの略奪をおこなった。このため同年、清朝はロシア公使の仲介により、英仏両国と北京条約を結んで講和した。この条約では天津条約(アロー戦争)の内容が確認されたほか、以下の条項などが追加された。
欧米列強の清に対する飽くなき欲望 1856〜60年清とイギリス・フランス連合軍の間に起こったアロー戦争(第2次アヘン戦争)についての風刺画。南京条約後、イギリスは更なる権益を望みます。イギリス商船アロー号の中国人水夫が清国に逮捕される「アロー号事件」が起こると、イギリスはフランスを誘って、再び清国に戦争をしかけました。清は敗れ、北京条約によって、イギリスに九竜を割譲するなど欧米諸国は権益をさらに拡大させました。 参考:おもしろい世界の風刺画 (OAK MOOK)
- 天津など11港の開港
- 香港対岸の九竜半島の一部をイギリスに割譲
- 賠償金の増額
このとき、ロシアの仲介の労に対して、露清北京条約が結ばれたことは前述のとおりである。また、外交公使の北京駐在にともない、清朝は総理衙門(正式には総理各国事務衙門)を設置して外交交渉に当たらせたが、これは清朝最初の外務官庁であった。
アロー戦争後、アヘン貿易は完全に合法化され、中国市場は欧米列強にほぼ全面的に開放された。また、外国商品には厘金 ❷ (国内関税)が免除されたため、外国製品は中国製品に対して著しい優位にたち、大量に外国製品が流入して、木綿工業をはじめとする中国の伝統産業は大打撃をうけた。また、租界も上海のほか、広州・天津・厦門などにも設置され、中国は、列強からの政治・経済上の圧力をいよいよ強くうけるようになり、半植民地化がいっそう進んでいった。