司馬睿( A.D.276〜A.D.323)
司馬睿は、東晋初代皇帝(在位318年 - 322年)。琅邪王司馬覲の子。はじめ東海王越(司馬越)の支配下にあり、越の意向によって307年建康に鎮した。以後、近侍の王導をはじめとする北人名族や江南の土着豪族の支持を得て次第に江南に勢力を固め、西晋最後の皇帝愍帝(司馬鄴)の死が伝わると、推されて晋室最後の生き残りとして皇帝の位につき、東晋を建てた。しかしその王朝権力は弱く、322年武将王敦の反乱が起り、その勢力に押されたまま没した。
司馬睿
中国、東晋の第1代皇帝(在位317~322)。字は景文。諡は元帝。琅邪王司馬覲の子。初め東海王越の支配下にあり、越の意向によって永嘉1(307)年建康に鎮した。以後、王導をはじめとする北人名族や江南の土着豪族の支持を得て次第に江南に勢力を固めていった。西晋最後の皇帝愍帝(司馬鄴)の死去が伝わると、推されて皇帝の位につき、東晋朝を建てた。しかしその王朝権力は弱かった。永昌1(322)年武将王敦の反乱が起り、その勢力に押されたまま没した。
参考 ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 プラス世界各国要覧 2018
東アジア世界の形成と発展
北方民族の活動と中国の分裂
分裂の時代
永嘉の乱
魏・晋代に今の山西の地に住み着いていた南匈奴は、漢人とは異なった遊牧を中心とする生活を送っていた。また、陝西〜甘粛にかけては、氐や羌などの諸民族が住みついていた。このうち、まず山西の南匈奴が優勢となり、都の洛陽を攻略し、ついで長安を攻めて皇帝を捕虜にし西晋を滅ぼした(316・永嘉の乱)。
東晋の建国
このため江南の軍司令官であった司馬氏の王族のひとり司馬睿は、317年かつての呉の都であった建業(建康と改称)で皇帝の位につき(元帝(東晋))、晋を復興した。これを統一時代の晋(西晋)と区別して東晋(317〜420)という。
子女
- 明帝司馬紹(道畿) 東晋第2代皇帝
- 琅邪孝王司馬裒(道成)
- 東海哀王司馬沖(道譲) – 東海孝献王司馬越・司馬毗父子の後を継ぐ
- 武陵威王司馬晞(道叔)
- 済陰悼王司馬煥(道耀)
- 簡文帝司馬昱(道万) 東晋第8代皇帝
- 尋陽公主
参考 Wikipedia