名和長年 なわながとし(生年不詳〜 A.D.1285〜A.D.1336
後醍醐天皇を支え続けた伯耆の武将。鎌倉末から南北朝期の伯耆国の武将。海運業で蓄財し、元弘の変で隠岐に流され脱出した後醍醐天皇を船上山に迎えて挙兵。一族をあげて後醍醐天皇に従い、建武の新政では天皇の側近として権勢を誇ったが、九州から東上した足利尊氏軍と京で戦い、敗死。
名和長年
後醍醐天皇を支え続けた伯耆の武将
鎌倉末から南北朝期の伯耆国の武将。海運業で蓄財し、元弘の変で隠岐に流され脱出した後醍醐天皇を船上山に迎えて挙兵。一族をあげて後醍醐天皇に従い、建武の新政では天皇の側近として権勢を誇ったが、九州から東上した足利尊氏軍と京で戦い、敗死。
参考 ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで
武家社会の成長
室町幕府の成立
鎌倉幕府の滅亡
天皇の配流をもって事件は鎮圧されたかにみえたが、北条氏に不平をもつ武士、とくに畿内の悪党の動きがここからにわかに活発になる。楠木正成は河内の千早城で再び挙兵し、幕府軍と戦った。当時の戦いの作法にといわれない正成の縦横無尽な戦い方は、史料に記された悪党の戦法そのままである。大和の山間部では護良親王が兵をあげ、悪党勢力の結集をはかった。播磨では親王の指令を受けて、悪党出身の赤松円心(1277~1350)が立ちあがった。彼らは幕府の大軍を相手に、いずれも粘り強く戦った。
畿内で戦いが続くうちに、地方でも反幕府の機運は高まっていった。肥後の菊池氏、伊予の土井・得能氏らの有力御家人も反旗をひるがえした。後醍醐天皇は隠岐を脱出して伯耆の名和長年(?~ 1336)に迎えられ、船上山にこもった。天皇のもとには多くの武士がはせ参じた。
参考