墨家
- 墨家 戦国時代(中国)に墨子によっておこった思想家集団であり、諸子百家の一つ。博愛主義(兼愛交利)を説き、またその独特の思想に基づいて、武装防御集団として各地の守城戦で活躍した。墨家の思想は、都市の下層技術者集団の連帯を背景にして生まれたものだといわれる。戦国時代に儒家と並び最大勢力となって隆盛したが、秦の中国統一ののち勢威が衰え消滅した。
- 墨子 生没年不詳、紀元前450~390頃 中国戦国時代の思想家。河南魯山の人。あるいはその著書名。墨家の始祖。孔子の説く愛に反対して、血縁をこえた無差別の愛(兼愛)を説いた。
墨家
アジア・アメリカの古代文明
中国の古代文明
古代思想界の開花
春秋末から戦国時代にわたり、血縁を基盤とする「封建」体制が崩壊し、諸侯は新しい統一の原理を求めていた。また、富国強兵にともなう実力主義による積極的な人材登用をおこなった。また、文字の使用は春秋期にはいると著しく拡大し、支配層だけに限られるものでなくなった。こういった文字の普及は、思想家の出現と無関係ではなかった。このような状況のもとに、諸子百家と呼ばれる多くの思想家や学派が生まれた。
諸子百家
諸子 | 孔子・老子・荘子・墨子・孟子・荀子 |
百家 | 陰陽家・儒家・墨家・法家・名家・道家・縦横家・雑家・農家・小説家・兵家 |
儒家は孔子(紀元前551頃〜紀元前479)の始めた学派で、家族倫理の実践によって人格を完成し、礼を実践することによって、ついには理想社会と天下泰平の実現が可能であるとした。
孔子の孫の子思の門人から儒教を学んだのが孟子(紀元前372頃〜紀元前289頃)で、紀元前4世紀ころ各地を遊説した。思想の中心に「仁・義」をおいたほか、天命が有徳者に移るとする改革論を説き、人間の本性は善であるとする性善説を主張した。儒教は魯からしだいに各地へ広がっていったが、最初に大きな影響を受けたのは魏である。儒家は、ここで多くの人材を養成して、魏に全盛時代をもたらした。
斉では全国から学者を招き、都臨淄に邸宅をつくり、ここに彼らを住まわせ保護した(稷下の学士)。
このような儒教の発展に対しては、多くの批判者や対立する立場をとるものが現れた。孔子に対して、最初に異を唱えたのが墨家である。墨家の祖である墨子は、孔子の説く仁を差別的な愛とし、形式的な礼楽の説や家族道徳を第一とすることに反対し、血縁を超えた無差別平等の「兼愛」を主張した。万人に対する博愛主義にたち、浪費をいましめ、相互の助け合い(交利)を主張し、戦争は浪費の最大なものとして、非戦論(非攻)を唱えた。
墨家十論
『墨子』における墨家の十大主張。
全体として儒家に対抗する主張が多い。また実用主義的であり、秩序の安定や労働・節約を通じて人民の救済と国家経済の強化をめざす方向が強い。また全体的な論の展開方法として比喩や反復を多様しており、一般民衆に理解されやすい主張展開が行なわれている。この点、他の学派と異なった特色を有する。特に兼愛、非攻の思想は諸子百家においてとりわけ稀有な思想である。
- 兼愛
- 兼(ひろ)く愛する、の意。全ての人を公平に隔たり無く愛せよという教え。儒家の愛は家族や長たる者のみを強調する「偏愛」であるとして排撃した。
- 非攻
- 当時の戦争による社会の衰退や殺戮などの悲惨さを非難し、他国への侵攻を否定する教え。ただし防衛のための戦争は否定しない。このため墨家は土木、冶金といった工学技術と優れた人間観察という二面より守城のための技術を磨き、他国に侵攻された城の防衛に自ら参加して成果を挙げた。
- 尚賢
- 貴賎を問わず賢者を登用すること。「官無常貴而民無終賤(官に常貴無く、民に終賤無し)」と主張し、平等主義的色彩が強い。
- 尚同
- 賢者の考えに天子から庶民までの社会全体が従い、価値基準を一つにして社会の秩序を守り社会を繁栄させること。
- 節用
- 無駄をなくし、物事に費やす金銭を節約せよという教え。
- 節葬
- 葬礼を簡素にし、祭礼にかかる浪費を防ぐこと。儒家のような祭礼重視の考えとは対立する。
- 非命
- 人々を無気力にする宿命論を否定する。人は努力して働けば自分や社会の運命を変えられると説く。
- 非楽
- 人々を悦楽にふけらせ、労働から遠ざける舞楽は否定すべきであること。楽を重視する儒家とは対立する。但し、感情の発露としての音楽自体は肯定も否定もしない。
- 天志
- 上帝(天)を絶対者として設定し、天の意思は人々が正義をなすことだとし、天意にそむく憎み合いや争いを抑制する。
- 明鬼
- 善悪に応じて人々に賞罰を与える鬼神の存在を主張し、争いなど悪い行いを抑制する。鬼神について語ろうとしなかった儒家とは対立する。
組織
墨家集団は鉅子と尊称された指導者の下、強固な結束で結ばれていた。
その証左として『呂氏春秋』の記述によれば、楚において、守備していた城が落城した責任をとって鉅子の孟勝以下、墨者400人が集団自決したという。城から脱出して孟勝の死と鉅子の引継ぎを田襄子に伝えにいった使者の墨者二人も、楚に戻って後追い自殺したという。このような強固な結束と明鬼編の存在から、墨家集団は宗教集団的色彩をも帯びていたであろうと思われる。
参考 Wikipedia
墨家が登場する作品
恕の人 -孔子伝-
生涯をかけて仁・義・礼・智・信の心を説き続けた孔子は、後に儒教、道徳の始祖と呼ばれる。
しかし、孔子は完璧な聖人でもなければ、超人でもない。国を転々とし、ついに大業を成し遂げることなく人生を終えた不遇の人なのである。
恕の人 -孔子伝- 登場人物とあらすじ – 世界の歴史まっぷ