夢窓疎石 むそうそせき( A.D.1275〜A.D.1351)
南北朝時代の臨済宗の僧。将軍足利尊氏のあつい帰依を受け、臨済宗の、とりわけ夢窓疎石の流派が、室町幕府の保護のもとで大いに栄えた。
元弘の変以来の戦死者の霊を弔うため、国ごとに安国寺・利生塔と呼ばれる一寺一塔を建立させ、また後醍醐天皇を追善するため尊氏らの援助で天竜寺を造営し、自らその開山となった。疎石は漢詩文に巧みであったほか、作庭の分野でも西芳寺庭園や天龍寺庭園などの名園を残し、禅宗文化の興隆にも大きく貢献した。
夢窓疎石
尊氏から篤く信頼された高僧
南北朝時代の臨済宗の僧。後醍醐天皇の勅によって京都南禅寺の住持に。その後、足利尊氏の命により京の嵯峨に天龍寺を開山する。足利家の内紛では調停役を果たすなど尊氏らの篤い信任を受けた。天竜寺の作庭など造園術にも優れ、門下から多くの逸材を輩出した。
参考 ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで
武家社会の成長
室町文化
左:天竜寺庭園(京都市)天竜寺は足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈るため、夢窓疎石の勧めで創建した。庭園は夢窓疎石作の池泉回遊式庭園である。
右:西芳寺庭園(京都市)池泉回遊式の部分と石組みを中心とした部分からなる。池泉回遊式庭園の庭全体は多種類の苔で覆われ「苔寺」の通称がる。
南北朝文化
仏教では、鎌倉時代に武家社会の上層に広まった臨済宗に夢窓疎石(1275〜1351)が出て、将軍足利尊氏のあつい帰依を受けた。疎石は、尊氏・直義兄弟に勧めて元弘の変以来の戦死者の霊を弔うため、国ごとに安国寺・利生塔と呼ばれる一寺一塔を建立させ、また後醍醐天皇を追善するため尊氏らの援助で天竜寺を造営し、自らその開山となった。このように足利尊氏の夢窓疎石に対する信頼には絶大なものがあり、彼らの交流をきっかけとして、臨済宗の、とりわけ夢窓疎石の流派が、室町幕府の保護のもとで大いに栄えることになったのである。疎石は漢詩文に巧みであったほか、作庭の分野でも西芳寺庭園や天龍寺庭園などの名園を残し、禅宗文化の興隆にも大きく貢献した。水墨画の世界でも黙庵(生没年不詳)や可翁(生没年不詳)らが登場し、早くもその活動を開始している。
こうして南北朝時代には、のちの北山文化や東山文化へとつながる室町文化の基礎が形作られたのである。