大坂城 おおさかじょう
所在地:大阪府大阪市中央区
城の形態:輪郭式の平城
天守の形態:五重・五階・地下一階、層塔型、独立式
築城年:1598(慶長3)年、1620(天和6)年再建
築城者:豊臣秀吉、徳川秀忠再建
文化財指定区分:登録有形文化財(天守)、重要文化財(大手門など13棟)
主な遺構:本丸・二の丸・大手門・多聞櫓、千貫櫓・乾櫓・一番櫓など
別称:錦城、金城
大坂城
城データ
大坂城 城データ
所在地 | 大阪府大阪市中央区 |
交通アクセス | JR大阪環状線森ノ宮駅・大阪城公園駅から徒歩20分 |
城の形態 | 輪郭式の平城 |
天守の形態 | 五重・五階・地下一階 層塔型、独立式 |
築城年 | 1598(慶長3)年 1620(天和6)年 |
築城者 | 豊臣秀吉 徳川秀忠 |
文化財指定区分 | 登録有形文化財(天守) 重要文化財(大手門など13棟) |
主な遺構 | 本丸・二の丸・大手門・多聞櫓 千貫櫓・乾櫓・一番櫓など |
別称 | 錦城、金城 |
豊臣秀吉が勢力をかたむけて築いた漆黒の居城・大坂城(豊臣期)は、1615(元和1)年の大坂夏の陣によって焼失した。江戸幕府はその焼け跡に新たな城を再建することを決め、1620(元和6)から多くの大名たちを動員した天下普請によって築城が開始された。足かけ10年を費やし、全ての面で豊臣期の大坂城を上回った大城郭が完成した。
豊臣期大坂城後に築城
1615年(元和1)5月、豊臣秀吉が創建した初代大坂城天守は、大坂夏の陣において炎上し、約30年間の命を終えた。その後に行われた徳川氏による大坂城の再興は、天下における豊臣色の払拭を目的としていたというのが従来の定説であるが、本丸・ニの丸の縄張だけでなく、城門、櫓、橋の名前までもが豊臣時代のものを忠実に継承している。これは豊臣色を取り除くというよりも、豊臣から徳川ヘ政権が正当に移ったことを天下に示すとともに、石垣の高さ、堀の深さを豊臣時代の2倍にし、天守を巨大化することで、徳川の威光を世に知らしめることが目的であり、政略上重要な意味をもっていたのである。
大坂夏の陣から5年後の1620年(元和6)に、大坂城再興工事は開始された。工事は北国・西国の諸大名47家による天下普請により行われ、第l期工事からはじまり第3期工事において完成するまで、足かけ10年の月日をかけた大がかりなものであった。天守の築造が始まったのは、第2期工事の1624年(寛永1)で、2年後の3代将軍徳川家光の時代に完成している。
純白に輝いた五重天守
豊臣期大坂城天守の復元立体図面(南面):豊臣時代の大坂城天守は、地上七階・地下二階建の望楼型天守で、安土城とほぼ同大、関ヶ原の戦い以前においては最大の天守であったと考えられる。黒漆塗の外壁に、金色に輝く巨大なさまざまの紋様などがあしらわれ、絢爛豪華な天守であった。豊臣政権の絶対性の象徴として、見る者を驚かせていたことであろう。
徳川期大坂城天守の復元立体図面(南面):徳川大坂城天守は、地上五階・半地下一階建の層塔型天守で、五階とはいえ各階が著しく高いため豊臣期天守の七階をはるかに凌ぐ高さであった。また、千鳥破風を重ごとに数を変えて配置し、最上重の屋根を銅瓦葺とするなど華やかな外観を備えていた。下の穴蔵は半地下式とし、外壁面には明かり採りの窓を設けていた。
1626年(寛永3)、大坂に外墜を白漆喰の総塗籠とした純白の層塔型天守が姿を現した。黒と金を基調とした豊臣時代の漆黒の望楼型天守とはまったく姿形が異なり、高さ、平面ともに豊臣時代を上まわる規模の天守であった。豊臣時代の天守を知る者は、その違いに非常に驚かされたのではないだろうか。
徳川大坂城天守は、当時において江戸城天守に次ぐ規模の天守であった。さらに、最上部の屋根に銅瓦を葺き、三重目の東西2面を唐破風(頂部の丸い破風)で飾るなど、元和期に築造された江戸城天守とよく似た、華やかな外観を備えていたと考えられる。寛永期に建て直された家光の江戸城天守が、すべての屋根を銅瓦葺とし、4面すベてに唐破風を設けていたことを考えると、さすがに江戸城天守の格式には及ばないものの、将軍家としての威光を示し、西日本へのにらみをきかすための、政略上重要な天守として築造されたことがうかがわれる。
秀吉が築いた大坂城
大坂城(豊臣期)
帯曲輪:本丸奥側の東面と西面には、細長い帯曲輪が二段に巡らされていて、本丸とともに一二三段を形成していた。
天守:豊臣時代の天守は、地上七階・地下二階の望楼型天守で、本丸の北東隅に位置していた。
御殿:本丸は、堀の入り込みにより南北に分割され、北側(奥側)と南側(表側)のそれぞれに御殿が建てられた。
「本丸図」:江戸幕府の京都御大工頭である中井家に伝わる写し図で、豊臣期の大坂城を知る上で欠かせない資料。
豊臣秀吉の築いた大坂城は、豊臣氏滅亡後に行われた再興工事により、全面に盛土が施され、地上からは姿を消したが、往時の姿は、江戸幕府の京都大エ頭中井家に伝わる大坂城「本丸図」により知ることができる。この「本丸図」は、豊臣大坂城本丸とその周囲を取り囲む内堀を描いたもので、城壁や櫓、城門、御殿殿舎及び付属建物などの位置が示され、石垣の長さや高さ、主要な建物については平面図も書き込まれている。1604年(慶長9)に築造された千畳敷に相当する建物が見当たらないことから、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦い以前の本丸の様子を描いたものとされ、中井氏によって作図された実測図の写本と考えられている。この「本丸図」により、豊臣大坂城の緻密に計算された縄張と、徳川大坂城の縄張のおおよその形が豊臣時代を踏襲していることを知ることができるのである。
要害堅固な地に造営
大坂城は、淀川や大和川の河口に近い水陸交通の要衝にあり、かつては石山本願寺が織田信長の攻撃に10年もの間耐え続けた、要害堅固な土地に築かれた。
豊臣秀吉の指揮により石山本願寺の跡地に1583年(天正11)から築城が開始され、1585年(天正13)春頃までに本丸が完成している。その後も二の丸や総構の築造が行われ、秀吉が死去する1598年(慶長3)には、三の丸の築造が行われている。
豊臣大坂城の縄張は、本丸の周囲を二の丸が囲い、ニの丸の南西側と南東側の2か所を三の丸として突き出させ、その外側を総構が取り囲む構成で、総構は城下町までをも取り込む非常に広大なものであった。本丸は、西側の内堀が斜めに入り込むため、表側と奥側に分かれており、土橋によりつながれていた。表側は対面の場として、奥側は日常生活の場として、それぞれで御殿が営まれていた。本丸奥側には、中心部の周囲に細長い帯曲輪が二重に巡らされ、3段構え(ーニ三段)となっていた。また、本丸奥側の北方には、一段低い位置に山里曲輪(本丸の背後などに設けられた、遊興施設や庭園をもつ曲輪)が築かれ、極楽橋により二の丸に通じていた。本丸奥側の城壁の折れ曲がりは独特で、屏風折の横矢掛(側面攻撃)になっており、大坂城本丸の特徴の一つとなっている。
本丸表側は、堀の入り込みによりさらに東西に分割され、東側には表御殿殿舎が、西側には米蔵が配置され、その南方に本丸正門である桜門を構えていた。この桜門は、門前の土橋部分を枡形(四角形の空間)にし、さらに門内にも枡形を設ける堅固な守りとなっていた。
豊臣氏の滅亡後、徳川氏の手により大規模な再興工事が行われ、石垣はより高く、堀はより深く築き直されたが、縄張は豊臣時代の基本形状がほぽそのまま継承されている。豊臣時代と徳川時代との大きな違いといえば、豊臣時代には本丸西側の内堀が斜めに入り込み、本丸が南北に分かれていたことと、天守が北東隅にあったこと、本丸の石垣がーニ三段を形成していたことぐらいである。縄張だけでなく、城門や櫓、橋の名前までも豊臣時代のものを忠実に継承していることから、縄張が優れていたというだけでなく、豊臣氏から正当に政権を引き継いだことを天下に示そうという思惑が、徳川氏にはあったのであろう。
広大な総構
近世城郭の防御性能は、高く築かれた石垣でも、巧妙に配置された狭間や石落でもなく、いかに広い総構をもち大軍をそこに配置できるかにより決まる。総構とは、城全体を囲う防御施設のことで、戦時には仮設の塀や、柵、櫓などが築かれ、守備兵がそこに籠もって戦った。豊臣大坂城の総構は、城下町までをも含む広大なものであり、大坂冬の陣の際には、10万を超える大軍が籠もり戦ったとされている。まさしく難攻不落の城であったと言える。豊臣大坂城の総構の様子を描いたものに、「大坂冬の陣図屏風」がある。この屏風は、豊臣秀頼が籠もる大坂城を徳川家康が率いる幕府軍が攻める大坂冬の陣の状況を描いたものである。屏風の中央寄りには天守が、天守手前の御殿の中には、豊臣秀頼らしき若武者と貴婦人(千姫あるいは淀殿か)が描かれている。図の下方には、総構の様子が描かれており、ここに描かれた、木柵や仮設の隅櫓、土塀、堀、土塁、夜間照明用と思われる提灯、土塀の背面に設けられた石打棚(敵を攻撃するために兵士が動き回れるように設けられた棚)などにより、当時の総構の状況を知ることができる。これら総構に築かれた防御施設は、緊急的·仮設的につくられた粗末なものであったが、20万もの徳川の軍勢を見事に食い止めて、城内への侵入を許さなかったのである。
多くの戦を経験し、戦を知りぬいた豊臣秀吉が築いた「難攻不落」の大坂城であったが、秀吉の死後、その防御の要が総構にあったことを知らなかった豊臣方は、大坂冬の陣の講和条件として総構の破壊・埋め立てを認めてしまう。この時点で豊臣大坂城の命運は決したと言っても過言ではない。
大坂城(豊臣期)
石山御坊の建立
大坂城が「石山本願寺の跡地に築城された」ことは知っている人も多いだろうが、この石山本願寺がふつうの寺院ではなく、堀と土塁で防備を固めた「城」
であった、という事実はあまり知られていないようだ。
石山本願寺、正式名称は大坂本願寺という。もともとは、浄土真宗中興の祖といわれる8世法主蓮如の建立した石山御坊(大坂御坊)という坊舎(僧侶の宿舎)であった。蓮如は1489年(延徳1)、法主の座を5男実如に譲り、自らは京都の山科本願寺南殿に隠居したが、その後も大坂などで布教活動を続けていた。石山御坊の建設は1496年(明応5)に開始され、翌年完成した。「石山」という通称は、工事のため土を掘りかえしてみると、不思議なことに柱礎(柱の土台として置く石)に適した石が数多く出てきたことに由来する。
そして1532年(天文1)、山科本願寺は、管領細川晴元と手を結んだ日蓮宗教団による焼き討ちを受けた。このとき、蓮如の曽孫にあたる10世法主証如はたまたま大坂にいたため難を逃れ、そのまま石山御坊に拠点を移す。翌年には、山科本願寺から運び出された祖像(開祖親鸞聖人御影) を石山本願寺に移し、正式に本願寺教団の本山となった。
石山合戦
石山本願寺のあった上町台地は、当時はすぐ北側を淀川が流れ、東から大和川や平野川、猫間川などの流れが集まる河口にほど近い場所にあり、海上交通の要衝として古代から栄えていた。経済的・軍事的な要衝である石山本願寺を本拠地とする本願寺教団は、細川晴元と和睦して室町幕府との関係修復を図るなど、仏教宗派というよりは独立した軍事力をもつ戦国大名としてこの地に君臨した。やがて証如が没し、わずか12歳の顕如が11世法主を継いだ。顕如は各地の門徒による一向一揆の掌握に務める一方、細川氏や京の公家衆との縁戚関係を深めることで絶大な権力をもつようになり、教団は最盛期を迎えた。
このころ、室町幕府の15代将軍足利義昭を奉じて織田信長が上洛を果たす。強大な軍事力を背景に多くの改革を推し進める信長に対し、義昭と結びついた本願寺教団は対決姿勢を強め、いわゆる「信長包囲網」の一翼を担った。足かけ11年におよぶ戦端が開かれた。激戦の末、ついに和議が結ばれるが、退去の際に石山本願寺は焼亡する。この戦いを石山合戦と呼ぶ。
大坂城の構築
石山合戦から2年後の1582年(天正10)、信長は志半ばにして本能寺の変に倒れたが、その後継者の地位を実力で勝ち取った豊臣秀吉は、翌1583年(天正11)から石山本願寺の跡地に大坂城の築城を開始した。かつての信長の居城であり、本能寺の変後まもなく焼失した安土城を手本にしたとされる大坂城は、安土城をも上回る空前のスケールを誇り、秀吉配下の大名とその家臣以下約5万人を動員して築城された。上町台地の北端を造成し石垣を積み上げた本丸部分は、ここだけで完成までに1年半を必要とした。引き続き2年余をかけて二の丸が築造され、天下統一後の1596年(慶長1)には総構堀の造成工事が完了する。三の丸の造成工事は秀吉晩年の1598年(慶長3) から開始され、完成したのは秀吉の死後であった。
秀吉時代の大坂城
後世の時代劇作品などでは、秀吉は大坂城に常在しここで政務を執っていたようなイメージがあるが、実際には秀吉自身が大坂城を居城としていた期間
はごく短かったようだ。大坂城二の丸の工事中に秀吉は京都の平安京の大内裏跡に緊楽第を築き、ここを政庁兼居館として入っていた。聚楽第は「居館」とはいっても、その規模は「城」である。さらに、聚楽第を関白の位とともに豊臣秀次に譲ると、隠居城として同じく京都の指月岡に伏見城を築き、1594年(文禄3)からこちらへ移っている。伏見城は1596年(慶
長1) に完成したが、直後に慶長伏見地震が起こり、倒壊してしまう。秀吉はただちに指月岡から北東約1kmの木幡山に新たな伏見城を築き、翌1597年(慶
長2)の完成とともに再度移った。そして、この2年後、大坂城三の丸の造成工事中に秀吉は伏見城内で没している。秀吉が不在の間、事実上の大坂城
主として君臨したのは、秀吉の正室であるお禰、すなわち北政所(高台院)であった。
大坂城の女城主
「北政所」とは摂政・関白の正室の称号であり、本来は普通名詞であったが、お禰の登場以降はもっばら彼女を指す固有名詞として定着している。秀吉にとっては若いときから苦労をともにしてきた妻であり、跡継ぎの子こそ成さなかったものの、終生頭の上がらない相手であったといわれる。
戦国時代には正妻が武家の家政をとり行うしきたりがあり、お禰も豊臣家の家政を一手に担っていた。1574年(天正2)に秀吉が近江長浜城主となると、おお禰は秀吉の母なか(大政所)とともに長浜城に入り、遠征などで留守がちな夫に代わって事実上の城主代行の地位にあった。そして、1585年(天正13) に秀吉とともに大坂城へ移り、同年秀吉の関白任官にともない、お禰自身も従三位に叙せられ、北政所の称号を許されている。以後、秀吉に代わって朝廷との交渉を引き受けたほか、人質として集められた諸大名の妻子を監督する役割も担っていたという。多くの史料において、おお禰は類いまれな政治的能力を持った人物として描かれている。淀殿との妻妾関係も、従来は対立関係とされてきたが、近年の研究ではむしろ協調関係にあったとする説が有力である。
秀頼の大坂城入り
1598年(慶長3) に秀吉が没すると、跡継ぎの秀頼はその母淀殿とともに伏見城から大坂城本丸に移った。翌年、お禰は大坂城を出て京都御所南東の京都新城に移っている。これは秀吉が晩年、緊楽第を取り壊して新たに築いた豊臣関白家の正式な邸宅である。この年には、豊臣政権五大老筆頭の徳川家康が大坂城西の丸に入って政務を執っている。
1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いでは、東軍・西軍ともに「秀頼公のため」を大義名分に掲げ、勝った家康は秀頼から「忠義者」と称賛された。その後、家康は孫娘の千姫を秀頼に嫁がせるなど、豊臣氏存続に腐心したが、秀頼はそれから10年以上も公の場に姿を現さなかったという。
大坂の陣
秀頼は1611年(慶長16)にひさびさに大坂城を出て、京都二条城で家康と会見する。ー説には、このときの秀頼の威風堂々たる若武者ぶりが家康に警戒の念を抱かせ、大坂の陣の遠因となったともいわれている。その後、方広寺鐘銘事件(秀頼の命令で再建された方広寺の鐘の銘が、徳川氏を呪う内容だったとするもの。秀頼討伐の口実と考えられている)などを経て、1614年(慶長19) に大坂冬の陣が勃発する。
大坂城には浪人衆(関ヶ原の敗戦で取りつぶされた大名やその家臣たち)数万人が籠城し、総勢20万人といわれる徳川方に抵抗したが、浪人衆と淀殿ら女房衆の意見が対立したことなどから、和議を申し入れることになった。和議の条件は大坂城の三の丸の堀を埋めることだったが、結果的に二の丸の堀まで埋めることになり(家康の陰謀説のほか、大坂方が自主的に埋めたとする説もある)、翌年には大坂夏の陣が起こって、難攻不落の大坂城もついに落城したのである。
大坂城(豊臣期)年表
大坂城(豊臣期)年表
1496(明応5) | 石山御坊の建設が開始される |
1532(天文1) | 山科本願寺が焼き討ちされる。本願寺10世証如、石山御坊に拠点を移す |
1533(天文2) | 石山本願寺に祖像が移され本願寺教団の本山となる |
1568(永禄11) | 織田信長、石山本願寺に対して軍資金5000貫を要求する |
1570(元亀1) | 信長、11世顕如に石山本願寺の明け渡しを要求する |
1576(天正4 ) | 顕如が反信長の挙兵。信長、明智光秀らに命じて石山本願寺を包囲する |
1580(天正8 ) | 正親町天皇の朝廷で、信長と石山本願寺の和議が成立する |
1583(天正11) | 豊臣秀吉が本願寺跡地に大坂城の築城を開始する |
1585(天正13) | 大坂城本丸が完成。五重の複合式望楼型の天守を構える |
1586(天正14) | 大坂城二の丸の造成を開始(〜1588年) |
1587(天正15) | 秀吉、平安京旧大内裏跡付近に聚楽第を築いて居館とする |
1592(文禄1) | 秀吉、前年に関白位と聚楽第を養子秀次に譲り、伏見城を築く |
1594(文禄3) | 大坂城総構堀の造成を開始(~1596年) 秀吉が伏見城に移る |
1596(慶長1) | 秀吉の3男拾丸、元服して豊臣秀頼を名乗る |
1598(慶長3) | 大坂城三の丸の造成を開始(〜1599) 秀吉が死去し、秀頼が大坂城本丸へ移る |
1599(慶長4) | 大坂冬の陣。真田信繁(幸村)、大坂城平野口に真田丸を構築する |
1615(元和1) | 大坂夏の陣。大坂城が落城し、豊臣氏が滅亡する。 |
1619(元和5) | 大坂城が幕府領に編入される |
1620(元和6) | 江戸幕府2代将軍徳川秀忠、大坂城の再建を開始する(〜1630) |
幕藩体制の確立
織豊政権
桃山美術
桃山文化を象徴するのが城郭建築である。この時代の城郭は軍事的·政治的な理由から、それまでの山城と違って交通の便利な平地につくられ、重層の天守(天守閣)をもつ本丸と、土塁や水沿で囲まれ、いくつかの石垣で築かれた郭をもつようになった。中世の山城は山の斜面を利用して土塁と空堀をつくり、戦時の防塞としての役割を果たしていたが、この時代の城は領国支配の利便をも考慮して、小高い丘の上に築く平山城や平地につくる平城となり、軍事施設としての機能とともに城主の居館・政庁としての機能をも合わせもつものとなった。安土城や大坂城・伏見城などは、全国統ーの勢威を示す雄大・華麗なもので、城の内部には書院造を取り入れた居館で人が設けられた。