大塩平八郎 おおしおへいはちろう( A.D.1793〜A.D.1837)
陽明学者。中斎と号す。大坂町奉行与力。引退後、家塾洗心洞で陽明学を教授。天保の飢饉における幕府の処置を不満とし、同志と蜂起したが(大塩の乱)、鎮圧されて自殺する。主著は大塩語録をまとめた『洗心洞箚記』。
大塩平八郎
陽明学者。中斎と号す。大坂町奉行与力。引退後、家塾洗心洞で陽明学を教授。天保の飢饉における幕府の処置を不満とし、同志と蜂起したが、鎮圧されて自殺する。主著は大塩語録をまとめた『洗心洞箚記』。
江戸末期に起こった武装蜂起
天保の第飢饉の救済を上訴 万策尽きた「大塩の乱」
数年来の天候不順のための凶作で、1836年(天保7)全国的な大飢饉に。大坂の米流通は麻痺、市中は餓死者が溢れた。大坂で私塾を開いていた陽明学者の大塩平人郎は、この惨状を見かねて東町奉行所に貧民救済策を上申。しかし、町奉行所はこれを無視するばかりか、豪商の米の買い占めを黙認、江戸の将軍就任儀式に米を送るなど暴政に明け暮れた。豪商たちヘの義援金急募も実を結ばない。自らの蔵書を売り払い、救民に努めるが、それにも限界がある。平八郎は意を決した。門人たちと近隣農民の呼応を図りながら挙兵の準備を進めていく。予定前日に計画が漏れたため、急遽の挙兵となったが、「救民」の旗印のもとに近在農民たちが集結。一党は100とも300ともいわれる数に膨れ上がり、大坂市中を火の海にした。しかし、反乱は半日ほどで鎮圧される。平八郎は40日後に隠れ家を幕吏に包囲されると、火を放って自害した。こののち、全国各地で「大塩残党」「大塩門弟」などの旗を掲げた一揆が頻発し、幕府は対応に苦慮した。
幕藩体制の動揺
幕府の衰退
大塩の乱
天保期に入ると、毎年のように凶作となった。1832(天保3)〜33(天保4)年には収穫が平年の半分以下となり、厳しい飢饉となった(天保の飢饉)。農村や都市の百姓一揆・打ちこわしが年間で100件を超え、江戸時代の百姓一揆発生件数のピークとなった。1836(天保7)年の飢饉はとくに厳しく、甲斐国都留郡(当時、郡内と呼ばれた)でおこった郡内騒動は、80カ村1万人が蜂起し、豪農・豪商宅を打ちこわして甲府に迫り、三河加茂郡の加茂一揆も、240カ村1万2000人が蜂起した大規模な一揆であった。ともに幕領での一揆であることから、幕府は衝撃を受けた。
この事件の風聞は全国各地に広がり、それが与えた影響は広く深かった。同年に国学者の生田万(1801〜37)が大塩門弟と称して越後柏崎の桑名藩陣屋を襲い(生田万の乱)、摂津能勢郡でも「大塩味方」をかかげた一揆がおこり、江戸でも「大塩余党」の蜂起が予告されたり、不穏な情勢が続いた。
江戸では、幕府が「お救い小屋」を建てて窮民を収容したり、寛政の改革で設けた江戸町会所の備蓄米·銭を与えるなどして、かろうじて打ちこわしなどを未然に防いだ。