大宛(フェルガナ) (紀元前2世紀頃〜6世紀)
中央アジアのフェルガナ地方。張騫が大月氏へ行く途中に大宛と康居を経たため、帰国後の報告で大宛の汗血馬の存在を知った武帝は(漢)は、李広利を派遣して3000頭の名馬を連れて帰った。大宛は、6世紀に突厥に支配される。
大宛(フェルガナ)
内陸アジア世界の変遷
遊牧民とオアシス民の活動
スキタイと匈奴
騎馬遊牧民と中国の対立の中にあって、「絹の道」(シルク・ロード)と後世名付けられた内陸アジアの東西交易路を結ぶオアシス地帯が、つねに両者の勢力争いの対象のひとつであった。
交易の利を騎馬遊牧民が確保するか、中国がこれを手に入れるかは、両者にとって重要な問題であった。そのため匈奴による西域進出がしばしばみられ、前漢の武帝(漢)は、パミールを越え、フェルガナ(大宛)まで軍隊を送り、宣帝(漢)のときは、西域都護府をおいて西域を治めるようになった。 後漢の西域都護 班超の30年余にわたる西域経営はあまりにも有名である。
- スキタイと匈奴 – 世界の歴史まっぷ
東西を結ぶ交通路
ユーラシア大陸の東西を結ぶ交通路は紀元前から存在した。そのうちのひとつは、中央アジアのオアシスを相互に結びつけて形成されたものであり、東アジアとインド・西アジア・ヨーロッパを結ぶ幹線であった。この幹線上に古くから多くの国々が興亡した。
紀元前3世紀中ごろ、アム川上流の南岸にギリシア人が建国したバクトリア、その滅亡後、同じ地域に拠った大月氏、シル川上流に位置したフェルガナ(大宛)の勢力などがその例である。
内陸アジアの風土と人々
オアシス地帯では、東西の交易が行われ、オアシスの道(絹の道、シルク・ロード)が生まれた。交易の中心となったのは、イラン系ソグド人であったが、周辺民族の干渉も盛んであった。このため、6世紀には突厥の支配がおよび、9世紀にウイグル人の移住が進んでからは、トルコ系の要素が強くなり、 トルキスタンと呼ばれるようになった。またこのころからイスラーム化も一段と進んだ。
諸地域世界の交流
東西文物の交流
人物の往来
張騫
シルク・ロードの交通に、大きな役割を果たしたのが張騫(?〜紀元前114)の西域旅行である。張騫は、紀元前139年頃から紀元前126年頃にかけて前漢武帝(漢)の命を受けて大月氏国へ赴いた。当時漢に敵対する匈奴を挟み撃ちにするための同盟を結ぶことが目的であった。彼は途中匈奴に捕らえられ、10年近くを匈奴で過ごしたが、抜け出して大宛(フェルガナ)、康居をへて大月氏国にたどり着いた。しかしアム川の上流に安定した国家を営んでいた大月氏国では、武帝(漢)の同盟策は受け入れられなかった。こうして張騫は帰国したが、帰国後、彼のもたらした西域の情報は、中国人にとって極めて魅力的であった。名馬として知られ、1日に千里走ると言われた大宛の汗血馬や于闐(コータン)の玉は、極めて魅力的な品であった。また中央アジアにおいても、中国の使者がもたらした絹などの品々を珍重した。ここに、後世シルク・ロードと呼ばれる交易路が出来上がるのである。
アジア・アメリカの古代文明
中国の古代文明
武帝の政治
そののち武帝は張騫を烏孫に使者として派遣したり、服属を拒否した大宛(フェルガナ)に遠征したりして、タリム盆地の諸都市にまで支配を広げた。
大宛遠征と汗血馬
甘粛省武威市の雷祖廟雷台漢墓から出た有名な馬の銅像・「馬踏飛燕」はこの馬をモデルにしたと言われる。