大黒屋光太夫
『光太夫と露人蝦夷ネモロ滞居之図』光太夫らが、ロシア使節ラクスマンに伴われ8年ぶりに日本へ帰国、ネモロ(根室)に到着したときの様子。松前藩士から借覧して模写された。画像出典:早稲田大学図書館 WEB展示会

大黒屋光太夫


大黒屋光太夫 だいこくやこうだゆう( A.D.1751〜A.D.1828)

伊勢の先頭。1782年、伊勢から江戸へ向かう途中で遭難。漂流8ヶ月、アリューシャン列島でロシア人に救われ、首都ペテルブルクで女帝エカチェリーナ2世に謁見。その後、ラクスマンの船で根室に帰着。桂川甫周が聴取して編纂した『北槎聞略』は、重要なロシア研究書ともなった。

大黒屋光太夫

大黒屋光太夫
大黒屋光太夫が書いたとされる日本の地図。©Public Domain

大黒屋光太夫が書いたとされる日本の地図。裏面には墨書で『天明九酋歳七月末日大日本国伊勢国白字大黒屋幸太夫』とある(1789年)。ロシア陸軍の医師をしていたゲオルク・トーマス・フォン・アッシュがゲッティンゲン大学に送ったカードには、ドイツ語で「1793年イルクーツクで受け取る」と記してあった。ゲッティンゲン国立大学図書館 アッシュ・コレクション蔵

伊勢の先頭。1782年、伊勢から江戸へ向かう途中で遭難。漂流8ヶ月、アリューシャン列島でロシア人に救われ、首都ペテルブルクで女性皇帝エカチェリーナ2世に謁見。その後、ラクスマンの船で根室に帰着。

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ロシア修交使節とともに帰国した漂流民

伊勢国生まれ。1782年(天明2)、神昌丸の船頭として江戸へ出航後、大時化おおしけで漂流。北方の小島に漂着後、シベリアからベテルブルグヘ行く。のちに遣日使節となったアダム・ラクスマンの父(キリル・ラクスマン)らの助力により、エカチェリーナ2世から帰国の許可を得る。10年近くを経て露船で帰国。

参考 ビジュアル版 日本史1000人 下巻

幕藩体制の動揺

幕府の衰退

列強の接近
大黒屋光太夫
『光太夫と露人蝦夷ネモロ滞居之図』 画像出典:早稲田大学図書館 WEB展示会

光太夫は、1782年、アリューシャン列島に漂流した。その後、ラクスマン(右端)は、1792年エカチェリーナ2世の命で、通商要求を目的に光太夫(左から3人目)らの漂流民をともない根室に来航したが、通商は拒否され長崎入港を許可する信牌しんぱいをうけて、帰国した。

漂流民

江戸時代の早い時期から漂流民はいたが、朝鮮や中国沿海、南方の島々に漂着した場合、朝鮮の船やオランダ船で長崎に送還された。運よく帰還できても、キリスト教の信者となっていないかなど、厳しく取り調べられた。しかし、帰国できた漂流民がもたらした海外事情は貴重で、漂流記は写本のかたちで広まり、また、ロシア領に漂着し、女帝エカチェリーナ2世に謁見までした大黒屋光太夫から、桂川甫周かつらがわほしゅうが聴取して編纂した『北槎聞略ほくさぶんりゃく』などは、重要なロシア研究書ともなった。中浜万次郎なかはままんじろうジョン万次郎)のように、アメリカで教育を受け、帰国したのちは幕府の通訳などになって活躍した者もいる。

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1792(寛政4)年には、アダム・ラクスマン(Laksman.1766〜1803?)がロシア使節として根室に来航し、漂流民で伊勢白子の船頭大黒屋光太夫だいこくやこうだゆう(1751〜1828)らを日本に送還するとともに、通商を求めてきた。幕府は、外交交渉は長崎以外では行わないので長崎に行くように回答し、長崎港への入港許可証である信牌しんぱいを与えた。

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同時代の人物

エカチェリーナ2世(1729〜1796)

ロマノフ朝第8代ロシア皇帝(在位1762年〜1796年)。夫ピョートル3世を廃し、啓蒙専制君主として国内改革をおこなう。オスマン帝国と戦い、南下の足がかりをえ、ポーランドを分割し、ロシア領土を広げた。

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