天智天皇
天智天皇(古今偉傑全身肖像) ©Public Domain

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天智天皇 (中大兄皇子なかのおおえのみこ) A.D.626〜A.D.671

第38代天智天皇てんじてんのう(在位668年2月20日 - 672年1月7日)。第34代舒明天皇の第2皇子。母は第35代皇極天皇(重祚して第37代斉明天皇)。第40代天武天皇大海人皇子おおあまのみこ)は同父母弟。皇后は異母兄・古人大兄皇子の娘・倭姫王。ただし皇后との間に皇子女はなく、夫人蘇我遠智娘おちのいらつめとの第二皇女・鸕野讃良皇女うののさららのひめみこは第41代持統天皇となる。

天智天皇

称制661〜667 在位668〜671。中大兄皇子の時代に中臣鎌足と共に蘇我氏を倒し、大化改新を推進した。孝徳・斉明両天皇の皇太子。斉明天皇の死後に称制(即位式を挙げずに政治を執ること)、近江遷都後の668年に即位。庚午年籍を作成し、近江令を制定したという。

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蘇我一族を討ち果たし大化の改新を推し進める

乙巳の変
乙巳の変 左上は皇極天皇。談山神社所蔵『多武峰縁起絵巻』©Public domain

乙巳の変の現場となった飛鳥板蓋宮正殿:入鹿暗殺蘇我入鹿が暗殺されたのは飛鳥板蓋宮正殿だった。入鹿を討っているのが中大兄皇子で、弓矢を持っているのが中臣鎌足。蘇我本宗家は滅び、実権は天皇家に戻った。

崇福寺跡
「崇福寺旧址」碑 Wikipedia

天智天皇が創建した崇福寺址(滋賀県大津市)。現在の跡は梵釈寺(桓武天皇が天智天皇追慕のために建立)との複合遺跡と考えられている。国の史跡と歴史的風土特別保存地区に指定されている。

クーデターにより蘇我宗家を滅ぼす

645年(皇極4 ・大化1)6月12日。夏の雨に包まれた飛鳥板蓋宮あすかいたぶきのみやでは、皇極天皇こうぎょくてんのう出席のもと蘇我入鹿そがのいるかをはじめ群臣が一堂に会し、三韓さんかん高句麗百済新羅)からの貢ぎ物を奉る儀式が行われていた。

蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだのいしかわまろの上奏文の朗読が終わろうとした瞬間、中大兄皇子と2人の勇士が入鹿に襲いかかり殺害した。それを聞いた父の蘇我蝦夷そがのえみしは自害し、専横を極めた蘇我本宗家は滅びた(乙巳の変いっしのへん)。

乙巳の変に始まる一大変革を「大化の改新」というが、この政治改革の主役が、中大兄皇子(のちの天智天皇)である。当時の朝廷は、蘇我蝦夷と蘇我入鹿父子が政治を独占しており、天皇は蘇我氏の愧儡かいらいにすぎなかった。

643年(皇極2)には入鹿が山背大兄王やましろのおおえのおう(厩戸王・聖徳太子の子)とその一族を滅ぼし、専横の度合いを深めていく。

こうした情勢下、中大兄皇子はなんとかして蘇我氏の手から政治を取り戻したいと考える。唐王朝の興隆や朝鮮半島の内紛という緊迫した情勢に対応するためにも、統一国家の実現が急がれた。

そんな中大兄皇子に、中臣鎌足なかとみのかまたりが急接近する。蘇我氏専横のもと、鎌足と利害は一致、密かに打倒蘇我を誓い合う。そして2人は、蘇我氏の不満分子を仲間に引き込むなど、用意周到な入鹿暗殺計画を進め、実行に移したのだった。

中大兄皇子は蘇我氏を倒しても天皇の位には就かなかつた。

しかし、孝徳天皇・斉明天皇の皇太子として実権を握り、公地公民制の実施など、いわゆる「改新の詔」を発布して改革を進めていく。改新政治が成果をあげている最中に、思わぬ事件が発生した。660年(斉明6)、唐。新羅の連合軍に実質的に滅ぼされた朝鮮半島の百済が援助を求めてきたのだ。

中大兄皇子は斉明天皇とともに九州の朝倉宮あさくらのみやまでおもむいたが、日本軍は白村江の戦いで大敗を喫する。

これにより唐の脅威に直面することになった中大兄皇子は、九州や瀬戸内海に城を築き、都を近江大津宮おうみおおつのみやに移し国内改革を早める。

そして668年、ようやく正式に天皇の位についた。

天皇は、最初の戸籍として知られる庚午年籍こうごねんじゃくの作成や近江令の制定など、律令国家の形成に尽力、唐にならった中央集権国家の実現に努めたが、671年12月、崩御。在位はわずか4年であった。

時を計った漏刻

『日本書紀』の671年の記事に、「漏刻を新台に置き、初めて候時を打ち」とある。漏刻とは水時計のことで、日本では中世まで時計は漏刻しかなかった。

律令国家の形成

律令国家の成立

律令国家への道

朝鮮半島では、655年、高句麗と百済が連合して、新羅に侵攻した。新羅は唐に救済を求め、高宗(唐)は660(斉明天皇6)年、まず百済に出兵して、その都扶余を陥れ、義慈王は降伏した。
ここに百済は滅亡したが、各地に残る百済の遺臣たちは、百済の復興に立ち上がり、倭国に滞在していた百済の王子豊璋ほうしょうの送還と援軍の派遣を要請してきた。
斉明天皇さいめいてんのう(在位655〜661, 皇極天皇が重祚ちょうそした)と中大兄皇子は、百済を復興して朝鮮半島における倭国の優位性を復活させようと考え、百済救済の大軍を派遣することに決した。
661年中大兄皇子は斉明天皇とともに筑紫に出征し、斉明天皇の死後は、大王の位につかないまま、戦争指導を行った。
662年に大軍を渡海させたが、翌663(天智天皇2)年、白村江の戦いにおいて唐・新羅の連合軍に大敗した。

664(天智天皇3)年、中大兄皇子は、甲子の宣かっしのせんを出して国政改革を断行した。これは豪族を大氏・小氏・伴造とものみやつこ再編成するとともに、民部かきべ家部やかべの領有民を確認して諸豪族との融和につとめるものであった。また、
国土の防衛にも専念し、対馬・壱岐や九州北部に防人さきもりとぶひをおき、筑紫に水城みずきを築いた。
665年からは、筑紫太宰の周辺や瀬戸内海沿岸から大和にかけて、大野城・基肄城きいじょう・長門城・高安城などの朝鮮式山城を築造した。
667年には、都を飛鳥から近江大津宮おおつのみやに遷し、翌668年に中大兄皇子が正式に即位して(天智天皇てんじてんのう)、国土防衛と国制の整備につとめることになった。

この間、唐・新羅連合軍は668年に高句麗を滅ぼしたものの、朝鮮半島支配をめぐって対立した。670年からは戦争状態に入ったのち、676年に結局、新羅は唐の勢力を駆逐して半島を統一する。

天智天皇は、668年に近江令おうみりょうを編纂させたといわれるが、これは体系的な法典ではなく、単行法令の集成がこのように称されたものとみられる。
670(天智天皇9)年には、最初の全国的な戸籍である庚午年籍こうごねんじゃくが作成された。これは全国の豪族から公民・部曲・奴婢までを登録して姓を定めたもので、その結果、徴税と徴兵は行いやすくなったが、地方豪族の不満は高まっていった。

庚午年籍

庚午年籍は、670(天智天皇9)年の庚午年につくられた戸籍。全国で、豪族から公民・部曲・奴婢までの全階層にわたるわが国最初の戸籍である。また、全国民の姓を定めたもので、律令制成立以降にも、氏姓の根本台帳として永久に保存されることとなった。
11世紀の『上野国交替実録帳こうずけのくにこうたいじつろくちょう』にも、「庚午年90巻<管郷捌拾陸駅家 肆>」とみえ、里(郷)や駅家うまやごとに1巻ずつくくられたことがうかがえる。
この戸籍が完成した結果、徴税と徴兵は容易に行えることとなったが、一方では、公地公民が徹底いていないこの時期に増席を強行したことは、地方豪族の不満を高めることとなり、壬申の乱で近江朝廷が敗北する一つの要因となった。

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天智天皇系図

天智天皇系図

天智天皇が登場する作品

いずれもマンガで、創作された部分はあるが、大まかな流れや飛鳥時代の動き、東アジアの情勢などを知ることで、歴史に興味を持つきっかけになると思う。登場人物が多いので、巻頭にある系図と照らし合わせ、登場人物の立場を把握しながら全巻一気に読んでほしい。

天上の虹 「持統天皇物語」

持統天皇の目線から描いた飛鳥時代

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天智と天武 「新説・日本書紀」

天智天皇と天武天皇を中心に、蘇我入鹿と藤原鎌足を日本書紀とは別の目線で描いた男の世界。

同時代の人物

玄奘三蔵 (602〜664)

唐の僧。インドに渡り仏教研究を行い、657冊の経典とともに帰還。太宗(唐)から三蔵の称号を受け経典の漢訳にあたり、75部1335巻の仏典を完成させる。弟子に編述させた『大唐西域記』は当時を知る重要な資料。明代に呉承恩ごしょうおんに書かれた長編小説『西遊記』の三蔵法師のモデル。

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