完顔阿骨打(
A.D.1068〜A.D.1123)太祖(金)。
金(王朝)初代皇帝(在位1115〜1123)。阿骨打はツングース系の女真族の完顔部の首長だったが、女真族の統一を進め、1115年、遼から自立して上京会寧府を都に金と称した。中国内に広大な領域をもった金(王朝)は、猛安・謀克という軍事行政制度で自民族を、中国領は中国風の行政で収める二重統治体制をとった。
完顔阿骨打
宋の周辺民族
ツングース系の女真族。1115年、皇帝の位に就き、根拠地を流れる川の名をとって国号を金とした。遼(契丹)軍を相手に勝利を重ね、全女真族の統一を達成。さらに宋との間に同盟を結んで華北に攻め込み、西京大同府(山西省大同)から燕京(北京)に至る一帯を占領した。宋がそれまで遼朝に贈っていた歳幣とともに銭100万緡と糧食20万石を与えると約束したので、燕京以下6州を宋に割譲した。
東アジア世界の形成と発展
東アジア諸地域の自立化
金の成立と西遼
やがて完顔部の首長である阿骨打は、急速に女真族の統一を進め、1115年、遼から自立して金(金朝 1115〜1234)を建国し、都を会寧府(現黒竜江省ハルビン市阿城区南白城)に定めた。
宋の南遷と金の華北支配
北宋は、燕雲十六州の奪回をはかり、新興の金朝と同盟を結んで遼朝を挟撃し、1125年、これを滅ぼした。しかし、戦費の支払いなどをめぐって北宋は背信行為を重ね、これに怒った金朝は大軍を南下させて北宋の都開封を攻囲した。
太祖完顔阿骨打は、遼朝の二重統治体制を採用し、女真族固有の部族制(軍事組織)である猛安と謀克(ミンガン・ムケ)を再編して、軍事・行政制度とし、これをもって女真人をおさめ、また漢人には中国式の州県制を用いてこれを統治した。
猛安・謀克
猛安は女真語で千を意味するミンガン、謀克は邑長を意味するムケの音訳であるといわれている。謀克は300戸からなり、その長も同じく謀克と称した。また10謀克をもって1猛安を組織し、その長も猛安とした。この組織は軍事的機能をもち、戦時には1謀克から100名の兵士をだして1謀克軍を編成し、10謀克で1猛安を編成した。