寺田屋事件 A.D.1862〜
上京した薩摩藩島津久光を擁して討幕挙兵を策した、尊王攘夷派の薩摩藩士有馬新七らを、幕政の改革の妨げになるとして、伏見の寺田屋において久光の使者が斬殺した事件。
寺田屋事件
上京した島津久光を擁して討幕挙兵を策した薩摩藩士有馬新七らを、幕政の改革の妨げになるとして、伏見の寺田屋において久光の使者が斬殺した事件。
近代国家の成立
開国と幕末の動乱
公武合体と尊攘運動
幕府による公武合体策は頓挫したが、11代将軍家斉の夫人が島津重豪(1745〜1833)の子で近衛家の養女であったことなどから知られるように、朝廷·幕府の双方につながりの深い外様の薩摩藩が、独自の公武合体策の実現に動いた。藩主の父島津久光は1862(文久2)年、寺田屋事件などで藩内の尊王攘夷派をおさえつつ、勅使大原重徳(1801〜79)とともに江戸に赴き、幕政の改革を要求した。幕府は薩摩藩の意向を入れて、松平慶永を政事総裁職に、徳川慶喜を将軍後見職に任命した。
また、京都所司代などを指揮して京都の治安維持にあたる京都守護職を新設して、会津藩主松平容保(1835〜93)をこれに任命し、あわせて参勤交代を3年に1回に緩和し、西洋式軍制の採用、安政の大獄以来の処罰者の赦免など、文久の改革と呼ばれる改革を行った。