平清盛
平清盛『天子摂関御影』丸尚蔵館所蔵 ©Public Domain

平清盛


平忠盛

平重盛

平清盛 A.D.1118〜A.D.1181
忠盛の子。保元・平治の乱以来、後白河上皇を武力・経済力で支え、妻の妹滋子を後白河上皇の后に入れた。1167年には武家として最初の太政大臣となっている。娘の徳子の生んだ幼帝安徳天皇を擁立し、権勢を強めた。1180年の源氏挙兵後、福原京遷都に失敗。まもなく病死した。

平清盛

忠盛の子。保元・平治の乱以来、後白河上皇を武力・経済力で支え、妻の妹滋子を後白河上皇の后に入れた。1167年には武家として最初の太政大臣となっている。娘の徳子の生んだ幼帝安徳天皇を擁立し、権勢を強めた。1180年の源氏挙兵後、福原京遷都に失敗。まもなく病死した。

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保元・平治の乱を制し平氏一門の全盛を築く

承平・天慶の乱 源平の進出年表
源平の進出年表 ©世界の歴史まっぷ

保元・平治の乱によって地位を向上

12世紀の半ば過ぎに起こった保元・平治の乱は、貴族政権の没落と武家政権の台頭を示す事件であった。この2つの乱に乗じて主役の座を射止めたのが、平清盛である。1153年(仁平3)、平清盛の父の平忠盛が没した。忠盛は鳥羽上皇に仕え宋との貿易を行い、瀬戸内海の海賊を従えるなどして財力・兵力を蓄え、平氏全盛の基礎を築いた。清盛は父が残した財産と兵力を受け継ぎ、平氏の棟梁となった。

その3年後、清盛が世に出る好機がめぐってきた。それが、1156年(保元1)に起こった保元の乱と、1159年(平治1) の平治の乱である。保元の乱は、後白河天皇と崇徳上皇との皇位争いが発端だが、武士はそれぞれの側に動員され、敵味方に分かれて争いに加わった。

清盛は源義朝らとともに後白河天皇方について戦った。崇徳方についた叔父の平忠正や、義朝の父の為義らを討ち、朝廷内での足場を固めた。この乱では清盛と義朝が勝利を収めたが、平治の乱では、両者が戦って清盛が義朝を討ち破った。この2つの乱では、京の都が兵火に巻き込まれ、保元の乱以来、合戦で敗れた武士には死刑が適用されるようになり、「武者の世」の到来といわれた。

これにより清盛は武士として初めて正三位の参議になり、公卿の列に加わった。その後の清盛の出世は驚くべきもので、1167年(仁安2)には、太政大臣という最高の官職についたのである。こうした出世は清盛だけでなく、一族の人々も恩恵に浴した。また、日本の66国のうち30国以上を平氏が支配し、荘園は全国に500か所以上もあったという。

平時忠(清盛の妻の弟)は「平家にあらずんば、人にあらず」と誇ったというが、まさに平氏にとって、この世の春であった。

全国に起こる打倒平氏の兵

しかし平清盛の勢威を快く思わない者もいた。かつて親しかった後白河法皇もそのひとり。

ついに1177年(安元3 ・治承1)京の東山の鹿ヶ谷で、後白河法皇の側近たちが、平氏打倒の密議を行っていたことが発覚し、清盛は関係者を流罪にしたり、殺したりした。法皇自身も関係していたことは明らかではあったが、清盛は事件の拡大を好まず法皇を追及しなかった。

ところが、法皇はこの後も1179年には死んだばかりの重盛の知行国を没収したり、清盛の推薦を無視して、別の公卿を権中納言に任じるなどの嫌がらせを続けたので、ついに清盛は武力を行使し、法皇を鳥羽殿に幽開した。清盛の独裁政治はますます度を強めたが、これに対して反平氏の勢力がしだいに台頭するようになった。

中でもまず、兵を挙げたのは後白河法皇の皇子・以仁王もちひとおうである。以仁王は、平氏全盛の中でただひとり源氏として政界に生き残っていた源頼政を味方につけた。1180年、平氏追討を命じる以仁王の令旨は各地の武将たちに伝えられた。

伊豆流されていた源頼朝は令旨に応じて立ちあがり、関東の支配を進めた。これに対し、平清盛は迫討の軍勢を送り、源平両軍は富士川をはさんで対峙した。しかし、源氏方の盛んな勢いを見た平氏軍は、戦わずして敗走した。信濃で挙兵した源義仲をはじめ、各地で平氏に反抗する武士が立ち上がった。

病床に伏した清盛のもとに届くのは、平氏に対する反乱の報告ばかりである。清盛は歯がみして悔しがったが、高熱にもだえながら息を引きとった。平氏が壇の浦で減ぼされたのは、それから4年後、1185年(寿永4・文治1)のことである。

中世社会の成立

院政と平氏の台頭

保元・平治の乱
保元の乱・平治の乱 保元・平治の乱関係図
保元・平治の乱関係図 ©世界の歴史まっぷ

武家の棟梁としての源氏は、東国に勢力を広げつつも、源義家の後の源義親みなもとのよしちかが流された出雲で反乱をおこし(源義親の乱 1107〜1108)、追討されるなどしてやや勢いを失うことになった。これにかわって院と結んで目覚ましい発展ぶりを示したのが、伊勢・伊賀を地盤とする桓武平氏の一族である。

中でも平正盛たいらのまさもりは、伊賀国の荘園を白河上皇に寄進して政界進出の基盤を築き、源義親を討って名をあげ、受領や検非違使けびいしとなって伊勢平氏の地位を高めた。正盛の子平忠盛たいらのただもりは瀬戸内海の海賊平定などで鳥羽上皇の信任を得、受領として千一体の千手観音像を安置する得長寿院とくちょうじゅいんを造営したことで、殿上てんじょうに昇ることが許され(殿上人)、武家という貴族の身分を獲得し、院近臣としても重く用いられるようになった。その平氏の勢力をさらに飛躍的に伸ばしたのが、忠盛の子平清盛たいらのきよもりである。

平氏のめざましい出世に対して、源氏も巻き返しをはかり、義親の子で義家の養子となった源為義みなもとのためよしは摂関家と結びつき、さらに為義の子の源義朝みなもとのよしともは東国に下って鎌倉を根拠地にし、広く関東の武士との主従関係を築きあげていった。

鳥羽法皇はこうした源平の武士を組織し、さらに諸国の荘園を集積したことで、専制的な権力を築いたが、それだけにその後の権力の掌握を求める争いが激化した。

1156(保元元)年、鳥羽法皇が死去するとまもなく、兼ねて皇位継承をめぐり法皇と対立していた崇徳上皇が朝廷の実権を握ろうと動いた。上皇は摂関家の継承を目指して兄の藤原忠道ふじわらのただみちと争っていた左大臣藤原頼長ふじわらのよりながらと結び、さらに源為義みなもとのためよし平忠正たいらのただまさらの武士を集めた。

これに対して、鳥羽法皇の立場を引き継いで朝廷の実権を握った後白河天皇は、近臣の藤原通憲ふじわらのみちのり信西しんぜい)を参謀にして、平清盛や源義朝らの武士を動員し、先制攻撃を仕掛けて上皇方を破った。その結果、崇徳上皇は讃岐さぬきに流され、頼長や為義らは殺された。これを保元の乱ほうげんのらんという。これまで京都を舞台にした合戦がなかったことから、この乱は貴族に衝撃を与え、また武士が政争に使われたことで、時代の大きな転換を人々に印象付けることになった。のちに延暦寺の天台座主てんだいざすとなった摂関家出身の僧慈円じえんは、その著『愚管抄ぐかんしょう』でこれ以後『武者むさの世』になったと記している。

乱ののち、政治の主導権を握った藤原通憲ふじわらのみちのりは、平清盛の武力を背景にして、保元の新制ほうげんのしんせいを出して、新たな基準を設けて荘園整理や悪僧・神人じにんの乱暴の取り締まりを行うなど、鳥羽院政の時代におこった社会の変動に対処した新たな政治を始めた。

保元の新制

律令格式の編纂ののちに朝廷から出される法令は、次第に「新制」と称されるようになった。荘園整理令もその一つであるが、多くは朝廷の内部の規律や服飾の統制を内容としている。しかし、保元の乱後に出された申請は、これまでになく大規模なもので、従来の整理基準を見直して、王土思想おうどしそうによりながら荘園整理を天皇の名のもとで行うこととし、白河・鳥羽の院庁下文いんちょうくだしぶみや宣旨で認められた荘園は公認すること、さらに大寺院や大寺社に所属する悪僧や神人の取り締まりを行うことなどを定め、さらに翌年にも、内裏を中心とした官人の規律や風俗の統制を命じており、その後の新制の基準とされた。

やがて院政を始めた後白河上皇の近臣間の対立が激しくなり、1159(平治へいじ元)年には、平清盛と結ぶ通憲に反感をもった近臣の一人藤原信頼ふじわらののぶよりが源義朝と結び、平清盛が熊野詣にきかけている留守をねらって兵をあげ、通憲を自殺させた。だが武力に勝る清盛は、京都の六波羅邸ろくはらていに帰還すると、藤原信頼らを滅ぼし、東国に逃れる途中の源義朝を討ち、その子の源頼朝を捕らえて伊豆に流した。これが平治の乱へいじのらんである。

この二つの乱を通じて、貴族社会内部の争いも武士の力で解決されることが明らかとなり、武家の棟梁としての平清盛の地位と権力は急速に高まった。

平氏政権

平治の乱後、清盛は後白河上皇の信任を得て、法住寺ほうじゅうじ御所の近くに蓮華王院れんげおういんを造営し、その本堂(三十三間堂)には千一体の千手観音像を安置するとともに、宝蔵には古今東西の宝物を納めた。こうした上皇への奉仕と武力によって、清盛は異例の昇進をとげて太政大臣となり、その子平重盛たいらのしげもりらの一族もみな高位高官にのぼって勢威並ぶもののないありさまとなった。

平氏が全盛を迎えた背景には、各地での武士団の成長があった。平清盛は彼らの一部を荘園や公領の現地支配者である地頭じとうに任命して、畿内・西国一帯の武士を家人とすることに成功し、さらに平氏の一門は海賊や山賊などの盗賊の追討使ついとうしに任じられたり、受領となったりして、東国にも勢力を伸ばしていった。

一方で、平清盛は院近臣の立場を利用し、その娘徳子(建礼門院けんれいもんいん)を高倉天皇たかくらてんのうの中宮に入れて、その子安徳天皇あんとくてんのうが即位すると外戚となって権威を誇った。
また、経済的基盤としても多くの知行国と500余りの荘園を所有するなど、その政権の基盤は著しく摂関家に似たものがあった。清盛は京都の六波羅ろくはらに邸宅を構えたので、この政権は六波羅政権ともいわれる。これらの点からみると、平氏政権は武家政権といっても貴族的な性格が強かったといえよう。

院政と平氏の台頭

平氏は忠盛以来、日宋貿易にも力を入れていた。すでに11世紀後半以降、日本と高麗・宋との間で商船の往来がようやく活発となり、12世紀に宋王朝が北方の女真の建てた金王朝に圧迫されて南に移ってからは、南宋)との通商も盛んに行われるようになった。清盛は摂津の大輪田泊おおわだのとまり(現神戸市)を修築し、瀬戸内海から九州の博多にいたる国々や良港を獲得し、瀬戸内海航路の安全を確保して宋商人の畿内への招来につとめ、貿易を推進した。

遣唐使の中止後、中央貴族は依然として国交や通商に消極的な態度をとっていたので、清盛の対外政策は大きな変化であり、宋船のもたらした多くの珍宝や宋銭・書簡は、以後の我が国の文化や経済に大きな影響を与え、また貿易の利潤は平家政権の重要な経済的基盤となった。

しかし、平家はもっぱら従来の国家組織にのって、官職の独占によって支配をはかったために、そこから排除された旧勢力からの強い反感を受け、清盛の妻の姉妹で、後白河法皇の妃となっていた建春門院けんしゅんもんいんがなくなると、法皇や院近臣との対立が深まっていった。

そして117(治承じしょう元)年には、法皇の近臣藤原成親ふじわらのなりちか・西光・僧俊寛しゅんかんらが、京都郊外の鹿ケ谷ししがたにで平氏打倒のはかりごとをめぐらし、失敗する事件をおこしている(鹿ケ谷の陰謀)。

さらに1179(治承3)年になると、法皇を中心に反平氏の動きが表面化したことから、清盛はついに法皇を幽閉し、関白以下多数の貴族の官職を奪い、処罰するという強圧的手段に訴えた。それは一時は功を奏し、全国の半分近くの知行国を獲得するなど、国家機構のほとんどを手中に収めることになった。しかし、こうした権力の独占がかえって反対勢力の結集を促し、平氏の没落を早める結果となった。

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東アジア世界の形成と発展

東アジア諸地域の自立化

東アジア諸地域の変動

9世紀以降、朝廷では藤原氏が台頭し、10世紀後半になると、摂関政治を展開した。このころには律令制的支配も動揺し、かわって貴族や大寺院が土地・農地を専有する荘園制が発展し、藤原氏をはじめとする貴族の社会的経済的基盤となった。

大陸では、唐末の混乱が続いたため、9世紀末、遣唐使は廃止された。このため公的な関係は途絶えたが、民間の交渉は継続した。これにより国風文化が形成され、仮名文字の発達により和歌やかな物語といった文学が貴族の間で栄えた。

11世紀後半になると、摂関政治にかわって院政がしかれ、受領や武士団をとりこんで権力を強化したが、12世紀後半に武家の棟梁である平清盛が平氏政権を確立し、日宋貿易に力を入れた。ついで平氏政権を倒した源頼朝は、初めての武家政権である鎌倉幕府を開き、執権北条氏のもとで幕府は朝廷に優位を保つようになった。

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経歴

平清盛 経歴

和暦西暦月日(旧暦)内容備考
元永元1118年1月18日生誕(数え年1歳)
大治41129年1月6日従五位下。1月24日、左兵衛佐。(12歳)公卿補任
大治61131年1月5日従五位上(14歳)公卿補任
長承41135年1月5日正五位下。8月21日、従四位下。(18歳)公卿補任
保延21136年4月7日中務大輔(19歳)公卿補任
保延31137年1月30日肥後守兼任(20歳)公卿補任
保延61140年11月14日従四位上(23歳)公卿補任
久安21146年2月1日正四位下。2月2日、安芸守兼任。
肥後守任替。(29歳)
公卿補任
保元元1156年7月6~11日保元の乱(39歳)公卿補任
7月11日播磨守公卿補任
保元31158年8月10日大宰大弐(41歳)公卿補任
平治元1159年12月9~26日平治の乱(42歳)
永暦元1160年6月20日正三位。8月11日、参議。大宰大弐如元。
9月2日、右衛門督兼任。
12月30日、大宰大弐辞任。(43歳)
公卿補任
永暦21161年1月23日検非違使別当兼職。近江権守兼任。
9月13日、権中納言。
検非違使別当・右衛門督如元。(44歳)
公卿補任
応保21162年1月9日検非違使別当・右衛門督両官職辞任。
閏2月9日、検非違使別当・右衛門督兼職。
4月7日、皇太后宮権大夫兼任。
8月20日、従二位。
9月、検非違使別当・右衛門督両官職辞任。(45歳)
公卿補任
長寛31165年1月23日兵部卿兼任。8月17日、権大納言。
兵部卿・皇太后権大夫如元。(48歳)
公卿補任
永万21166年6月6日正二位。10月1日、春宮大夫兼任。
兵部卿・皇太后宮権大夫両官止む。
11月11日、内大臣。(49歳)
公卿補任
仁安21167年2月11日従一位太政大臣。
5月17日、太政大臣辞任。(50歳)
公卿補任
仁安31168年2月11日出家(51歳)公卿補任
承安元1171年徳子入内(54歳)
治承元1177年鹿ケ谷の陰謀(60歳)
治承31179年治承三年の政変(62歳)
治承4年1180年4月22日安徳天皇即位(63歳)
4月以仁王が平氏追討の令旨を発する吾妻鏡
6月10日准三宮宣下百錬抄
8月17日源頼朝挙兵吾妻鏡
養和元1181年閏2月4日薨去(享年64 / 満63歳没)玉葉
月日は旧暦。

子女

  • 正室:高階基章の女
    • 長男:平重盛
    • 次男:平基盛
  • 継室:平時子(二位尼) – 平時信の娘
    • 三男:平宗盛
    • 四男:平知盛
    • 五男:平重衡
    • 三女?:平徳子(建礼門院) – 高倉天皇中宮
  • 側室:厳島内侍
    • 七女?:御子姫君
  • 側室:常盤御前
    • 八女?:廊御方
  • 生母不明の子女
    • 六男:平維俊
    • 七男:平知度
    • 八男:平清房
    • 長女?:坊門信隆室
    • 次女?:藤原成憲室、後花山院兼雅室
    • 四女?:平盛子 – 近衛基実室、高倉天皇准母、准三宮
    • 五女?:藤原信親室、後冷泉隆房室
    • 六女:平完子 – 近衛基通室
  • 養子
    • 平清貞 – 実父:中原師元
    • 平清邦 – 実父:藤原邦綱

参考 Wikipedia

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