慶安の変
慶安の変を題材とする歌舞伎の演目『樟紀流花見幕張』右より 二代目澤村訥升の金井谷五郎、四代目中村芝翫の宇治常悦、初代市川左團次の丸橋忠弥(豊原国周画/ボストン美術館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

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慶安の変 けいあんのへん

1651(慶安4)年、家綱の将軍宣下が行われる少し前の7月23日に、兵学者由井(比)正雪が槍の名人丸橋忠弥ら、3代将軍家光までの武断政治によって、大名を処分したために生じた多数の牢人の集団を率いた、幕府転覆の陰謀が発覚した。幕府はこの事件を天下謀叛として、自殺した正雪の首を安倍川河原にさらし、丸橋忠弥ら多数の牢人を処刑したのち、牢人の発生を防ぐため、御家断絶の原因になっていた末期養子の禁止を緩和した。

慶安の変

幕藩体制の展開

幕政の安定

平和と秩序の確立

1651(慶安4)年、11歳の家綱の将軍宣下が行われる少し前の7月23日に、兵学者由井(比)正雪(1605?〜51)の乱(慶安の変)と呼ばれる事件がおこった。正雪が槍の名人丸橋忠弥まるばしちゅうや(?〜1651?)らの牢人集団を率いて幕府転覆の陰謀を企てているとの密告がなされたのである。幕府はこの事件を天下謀叛として、自殺した由井正雪の首を安倍川河原にさらし、丸橋忠弥を処刑したほか、多数の牢人をはりつけや打首にした。

幼い4代将軍家綱を支える大老酒井忠勝(1587〜1662)·老中松平信綱や叔父である後見人の保科正之(1611〜72)らの幕閣は、事件後、牢人の発生を防ぐため、御家断絶の原因になっていた末期養子の禁止を緩和した。それは、今後は当主が死に臨んだとき(末期)、その当主が50歳未満の場合には末期養子を入れて家の存続をはかることを許可したものである。ただし、50歳以上の当主に跡継ぎがなかった場合には、依然、末期迷子は禁止され続けた。

浪人は、本来は浮浪人を意味した。主家をもたない武士身分である牢人は、牢の字を嫌って、江戸時代中期以降、浪人の字をあてるようになった。
大名の改易:大名の改易は、5代将軍綱吉の時までに253家1895万石余りにのぼった。初期には軍事的な理由による外様大名の改易が多かったが、大坂の役以降は末期養子の禁止に触れる例などが多かった。
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