最恵国待遇 さいけいこくたいぐう
最も良い待遇の国と同等の待遇を、すべての条約締結国にも自動的に適用されるもの。アヘン戦争の虎門寨追加条約、日清戦争の下関条約、日米和親条約などは片務的で不平等なものであった。
最恵国待遇
他国に与えている最も良い待遇と同等の待遇を締約国にも与えること。和親条約で、日本側だけが一方的にこれを強要され、通商条約に引き継がれた。
条約締結国の一方が、もっとも有利な待遇を与える第三国と同等の待遇を相手国に対して与える取決め。清は、虎門寨追加条約でイギリスに片務的な最恵国待遇を認めた。
アジア諸地域の動揺
東アジアの激動
アヘン戦争
南京条約では、以下が約された。
- 香港島の割譲
- 上海・寧波・福州・厦門・広州の5港開港
- 公行の廃止による完全な自由貿易化、
- 賠償金2100万ドルの支払い
さらに翌1843年には虎門寨追加条約が結ばれた。これは、以下の内容とする不平等条約であった。
- 領事裁判権(治外法権) ❸
- 協定関税(関税自主権の喪失) ❹
- 最恵国待遇(片務的最恵国待遇)
最恵国待遇
最恵国待遇とは、ある国が複数の国と条約を結んでいる場合、そのうちのA国に対しとくに有利な取り決めを行なった場合、その取り決めは、A国以外のすべての条約締結国にも自動的に適用されるというものである。近代国家間では、相互に最恵国待遇を与えるのが通例であるが、清と欧米列強との条約では、清側のみが一方的に相手国に最恵国待遇を与えるという、不平等なものであった。
清朝は、1844年にアメリカと望厦条約、フランスと黄埔条約を結んで、翌1845年イギリスは最初の租界を上海に設置した。こうして南京条約以降、中国は主権の一部を失った不平等条約のもとで欧米列強の激しい進出にさらされ、いわゆる半植民地化の道をたどることとなった。
甲午農民戦争と日清戦争
日清両軍による甲午農民戦争の徹底鎮圧の提案が清朝側に拒否されると、7月末、日本は清軍に奇襲攻撃をかけ、ここに日清戦争(1894〜95)が勃発した。戦いは9月の黄海海戦で清国海軍の主力北洋艦隊を壊滅させ、同じく9月の平壌の戦いで清国陸軍を朝鮮から撤退させるなど、陸海ともに軍備の近代化で先行していた日本の圧勝に終わり、翌1895年4月、日本全権の伊藤博文(当時首相)・陸奥宗光(同外相)と清国全権李鴻章との間で下関条約が結ばれ、両国は講和した。その結果、以下の内容などが決定された。
- 朝鮮の独立(清は宗主国の立場を放棄)
- 日本への台湾・澎湖諸島・遼東半島割譲 ❷
- 賠償金2億両の支払い
- 重慶・杭州・蘇州・沙市4港の新規開港と開港場での企業経営の承認 ❸
- 一方的最恵国待遇 ❹
❷ このうち遼東半島はロシア・ドイツ・フランスの三国干渉により、清に変換された。
❸ 開港場における工業などの企業経営権は、このとき日本が列強にさきがけて獲得したものである(最恵国待遇により列強にもただちに追認された)。これにより日本や欧米列強の中国への資本輸出が本格化し、中国に対する経済的侵略がいっそう進行していった。
❹ 翌1896年には日清通商航海条約が結ばれ、清は関税自主権喪失と領事裁判権を承認した。
近代国家の成立
開国と幕末の動乱
開国
ペリーは翌1854(安政元)年、軍艦7隻を率いて再び浦賀に来航し、江戸湾の測量を行うなど軍事的な圧力をかけつつ、条約の締結を強硬に迫った。政府は、その威力に屈して日米和親条約を結んだ。
日米和親条約
条約は12条からなり、(1)アメリカ船が必要とする燃科や食糧などを供給すること、(2)遭難船や乗組員を救助すること、(3)下田・箱館の2港を開き領事の駐在を認めること、(4)アメリ力にー方的な最恵国待遇を与えること、などを取り決めた。最恵国待遇とは、日本がアメリカ以外の国と結んだ条約で、日本がアメリカに与えたよりも有利な条件を認めたときは、アメリカにも自動的にその条件を適用することをいうが、この条約では相互に最恵国待遇を与えるのではなく、日本が一方的(片務的)に与える不平等なものであった。
- 虎門寨追加条約