李斯 (?〜紀元前210年)
李斯は、秦の政治家。荀子について帝王治世の術を学ぶ。呂不韋の推薦により秦王政に仕え、天下統一後も始皇帝、二世皇帝のもとで廷尉、丞相の要職を歴任。始皇帝が崩御すると、趙高とともに胡亥を擁して権力を握るが、のちに趙高によって処刑された。
李斯
- 秦の始皇帝に仕えた法家の1人。
- 丞相として始皇帝に仕えた政治家。呂不韋の推薦で秦につかえ、統一完成後は丞相として種々の中央集権策を進言した。二世皇帝のとき、処刑された。
始皇帝の手足となって働く
秦の政治家。荀子について帝王治世のすべを学ぶ。呂不韋の推薦により秦王政に仕え、天下統一後も始皇帝、二世皇帝のもとで廷尉(最高裁長官)、丞相の要職を歴任。始皇帝が崩御すると、趙高とともに胡亥を擁して権力を握った。
焚書坑儒を断行した宰相
秦代の宰相として、焚書坑儒を断行した。始皇帝死後、趙高による胡亥(始皇帝の未子)の擁立に加担させられ、後に趙高によって処刑された。
アジア・アメリカの古代文明
中国の古代文明
古代思想界の開花
法家
法家の思想は、戦国時代に商鞅や韓非によって説かれた思想である。
この時代は富国強兵が普及し、国力の増強にあたっては、孔子の徳治主義は政治的に現実の実効性にそぐわなくなり、新しい強力な思想が求められた。韓非は戦国時代の韓の一族であるが、はじめ李斯とともに荀子に学び、韓に仕えたが用いられず、『韓非子』を著して政治の方法を論じた。すなわち、荀子の礼を実施するには法律的な強制をもってしなければならないとし、ここに法家の学が大成したのである。これを法治主義という。商鞅や韓非などに代表される法家の思想は、法によって民衆を統制し、国内を統一しようとするもので、秦はこの思想を採用し、法治主義は中国の思想史上重要な位置を占めることになった。
秦の統一
秦は戦国七雄のうちで最強となり、秦王の政のとき、東周および東方の6国を次々に滅ぼして、紀元前221年に中国を統一した。中国を統一して諸王の王となった秦王の政は、「王」に変えて新たに「皇帝」(「煌々たる上帝」、光り輝く絶対神という意味)の称号を採用した。すなわち秦の始皇帝(位紀元前221〜紀元前210)である。始皇帝は、法家の李斯の意見にもとづき中央集権的な統一政策を実施した。
中央官制では、丞相(行政)・太尉(軍事)・御史大夫(監察)をおいてそれぞれ権力を分立させた。地方では、周の封建制を廃して、統一以前から秦の領土ですでにおこなわれていた郡県制を全国に施行した。
その結果、全国を36の郡に分け(のちに新しい領土が加わったり、大きい郡を分けたりして48郡にしたといわれる)、それぞれの郡には守(行政)・尉(軍事)・監(監察)その下の県には令(行政)・尉(軍事)などの官吏を中央から派遣し統治にあたらせた。郡県制の施行とともに、反乱を防ぐ目的で民間にあった兵器を没収して都の咸陽に集め、全国のおもな都市の城壁を破壊し、12万戸といわれる富豪を咸陽に移した。また、これまで各国で異なっていた度量衡・貨幣(半両銭の鋳造)・文字を統一し(小篆)、さらに車軌(車軸の長さ)の統一もはかったといわれる。
さらに儒家による周の封建制復活の動きに対する李斯の批判にもとづき、医薬・占い・農業技術書以外の書物は全て焼かせ(焚書,紀元前213)、翌年、儒家のうちに皇帝を謗るものがあったことで、咸陽に居住する460数名の儒学者らを捕らえて生き埋めにし(坑儒)、言論・思想の統制をはかった(焚書・坑儒)。
そのほか、始皇帝は中国を統一した翌年から地方の巡幸をおこなって皇帝の威厳を各地に示し、皇帝権力の絶対化と中央集権化を推し進めた。