松尾芭蕉
松尾芭蕉像(葛飾北斎画)©Public Domain

松尾芭蕉


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松尾芭蕉 まつおばしょう( A.D.1644〜A.D.1694)

貞門派の技巧と談林派の自由な描写力の両方に学び、さび(自然にとけこんだ枯淡の心境)栞(十分な余情をつつむリズム)細み(繊細な味)の幽玄閑寂に価値をおく蕉風と呼ばれた。芭蕉は俳諧を独立した芸術に高めた。全国を紀行して自然のなかに広く素材を選んだ『奥の細道』など紀行文も残す。

松尾芭蕉

俳諧一筋に生きた50年 俳聖が得た「一所不在」の心

江戸俳壇での一本立ちまで

松尾芭蕉が俳諧に出会ったのは、18歳の頃、伊賀上野藩主いがうえのはんしゅ藤堂家の侍大将藤堂良忠とうどうよしただのもとに、台所用人として出仕したことがきっかけだった。主人の良精が俳諧好きで、京で流行っていた貞徳流ていとくりゅうの俳諧を身につけた。1672年(寛文12)、自らが判者はんじゃとなった『貝おほい』を編纂へんさん、それを地元の天満官に奉納した。俳諧師として生きる決意の現れであった。芭蕉は29歳。江戸に向かった。『江戸両吟集えどりょうぎんしゅう』の刊行などで江戸俳壇に知られるようになった芭蕉だったが、生活は苦しく、小石川上水工事の事務職を副業にするなどして糊口ここうをしのいだ。1682年(天和てんな2)暮れ、深川にかまえた草庵そうあんが、大火で焼失。焼き尽くされたいおりを前にして、芭蕉は「一所不在いっしょふざい」の志を得た。一所不在を体現するかのように芭蕉は旅を繰り返し、46歳のときに『おくのほそ道』への旅に出る。この旅は、芭蕉を「不易流行ふえきりゅうこう」に目覚めさせた。そして「蕉風しょうふう(正風)」俳諧を確立し、俳諧を芸術の域にまで高めた。

たしかに芭蕉の家系を遡ると伊賀の土豪であり、忍者だった可能性もあるが、すでに帰農して数代を経ており、芭蕉が忍者だったという説は成り立たないだろう。
参考

幕藩体制の展開

元禄文化

元禄期の文学

元禄期の文学は上方の町人文芸が中心で、松尾芭蕉(1644〜94)・井原西鶴(1642〜93)・近松門左衛門(1653〜1724)がその代表である。

元禄期の文芸

小説仮名草子浅井了意『東海道名所記』
浮世草子井原西鶴『好色一代男』『好色五人女』(好色物)
『武家義理物語』『武道伝来記』(武家物)
『日本永代蔵』『世間胸算用』(町人物)
俳諧貞門派松永貞徳『御傘』(古風、俳諧の規則を定める)
談林派西山宗因『西翁十百韻』(新風、自由・軽快)
蕉風松尾芭蕉『俳諧七部集』(冬の日・春の日など)
俳文松尾芭蕉『野ざらし紀行』『笈の小文』『奥のほそ道』
脚本浄瑠璃近松門左衛門『曽根崎心中』『心中天網島』『冥途の飛脚』(世話物)
国性爺合戦』(時代物)
古典契沖『万葉代匠記』
北村季吟『源氏物語湖月抄』
参考: 山川 詳説日本史図録
松尾芭蕉は、貞門の技巧と談林の自由な描写力の両方に学んだ。(自然にとけこんだ枯淡こたんの心境)、しおり(十分な余情をつつむリズム)・細み(繊細な味)で示される幽玄閑寂ゆうげんかんじゃくに価値をおく蕉風と呼ばれた芭蕉の俳諧は、単に室町時代からの連歌の発句の位置しか与えられなかった段階から、独立した芸術に高められた。
松尾芭蕉
国名勝「おくのほそ道の風景地」画像出典:大垣市

芭蕉は『野ざらし紀行』や『奥の細道』などの紀行文を残しているように、全国を紀行して自然のなかに広く素材を選んだ。三都に限らず、地方の農村部にも芭蕉や弟子の一行を待ち受け、支えた人々が存在したことは、これまでにない文化の広がりを感じさせる。榎本其角えのもときかく(1661〜1707)·服部嵐雪はっとりらんせつ(1654〜1707)・各務支考かがみしこう(1665〜1731)・向井去来むかいきょらい(1651〜1704)らの弟子は「焦門の十哲しょうもんのじってつ」と呼ばれたが、芭蕉の死後、多くの派に分裂した。

同時代の人物

ルイ14世(フランス王) (1638〜1715)

フランス王国ブルボン朝第3代王(在位1643年5月14日 – 1715年9月1日)。王権神授説を唱え、フランス絶対王政を確立。重商主義で国力を高め、宮廷文化を開花させる。治世の大半を侵略戦争に費やした。絢爛豪華なヴェルサイユ宮殿を20年かけて造営。

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