浅野長矩( A.D.1667〜A.D.1701)
浅野長矩は、赤穂藩三代藩主。。従五位下内匠頭の官職を与えられた。2度目に勅使御馳走役を務めた際、江戸城内で指南役の吉良義央に斬りつけ即日切腹。のち家臣仇討ちを果たし、「忠臣蔵」として後世、有名となる。
浅野長矩
「忠臣蔵」の導火線となった江戸城中松の廊下の刃傷事件
江戸城刃傷事件 長矩、無念の切腹となる
浅野長矩の刃傷事件に端を発する赤穂事件は、のちに人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』のモデルとなる。1748年初演のこの浄瑠璃は、歌舞伎などでも上演され、こうした錦絵も多く描かれた。
1701年(元禄14)、江戸城内は、勅使への奉答の儀の準備いそがに忙しかった。白書院につづく本丸大廊下(松の廊下)がにわかに慌しくなった。赤穂藩主浅野長矩が、指南役の吉良上野介義央に脇差を振るい斬りつけたのである。「このあいだの恨み、覚えたるか」長矩はそう叫んだという。傍らにいた旗本・梶川頼照が、浅野を背後から抱きとめる。「内匠頭(長矩)ご乱心!」浅野は押さえつけられ、ただちに一関藩主田村建顕に預けられた。長矩がなぜ殿中での刃傷に及んだかについては、諸説入り混じり真相はいまだにわからない。ただ、吉良に対して何らかの遺恨を抱いていたことは確かなようである。遺恨の理由としては、接待指南役だった吉良が長く出張して長矩の準備を滞らせた、また、指南授業料としての賄賂をほかの接待役が吉良に払ったのに対し長矩は払わなかったため、ことあるごとに吉良が長矩の瑕疵を露呈させて長矩の面目を潰した、また、勅使接待費用などをめぐる実務的な確執があった、さらに、周辺の実力者たちが企てた陰謀に長矩と吉良が利用されたなど、巷説もさまざま流布し定説はないといえる。それでも、一度は成功した勅使接待という大役において、長矩が大失態を犯したことに変わりはなかつた。この失態に、良くも悪くも朝廷勢力を重く見ていた時の5代将軍徳川綱吉は激怒。翌年に実現するはずの生母・桂昌院の従一位下賜の破約を懸念したともいわれるが、長矩の切腹と浅野家の御家断絶が瞬く間に決定された。長矩は、身柄を預けられた田村建顕の江戸屋敷の庭で切腹。急ぎ駆けつけた家臣たちに、「この段かねて知らせ申すべく候へども、今日やむを得ざること候故、知らせ申さず候、不審に存ずべく候」と遺言した。
辞世として
風さそふ 花よりもなほ
我はまた 春の名残を
いかにとやせん
が伝えられている。喧嘩両成敗の法がありながら、主君は切腹に処され御家は断絶、一方の吉良は高家(幕府の儀礼を管掌する名家)を頼みに隠居しておとがめなしという矛盾に、浅野家の旧臣たちは激怒した。翌年、赤穂藩の旧臣47名(一説46名)が集まり、吉良邸に討ち入り、吉良を殺害した(赤穂浪士討ち入り事件)。赤穂この事件は、討ち入りが幕法への違反であるか、忠義にかなったものであるかで、幕府も揺れたという。結局、旧臣たちは切腹となるが、この仇討ちは美談とされ、「忠臣蔵」として多くの日本人の知るところとなった。
略年表
- 1667年 赤穂藩主浅野長友の嫡男として誕生
- 1675年 三代赤穂藩主となる
- 1680年 内匠頭に任じられる
- 1683年 勅使御馳走役となる。このときの指南役は吉良義央であった
- 1701年 再び勅使御馳走役となるが、儀式当日、江戸城内で吉良義央に斬りつける。即日切腹
主君の仇を討った赤穂浪士討ち入り事件
浅野長矩の凶行はすぐさま赤穂藩浅野家家中に知らされた。大石良雄を筆頭に、家臣は主君の敵討ちを決意する。翌年の決行当日の朝、大石ら主だった同士10名は泉岳寺に詣で、旧主の墓前に花を供えたという。
浅野長矩と赤穂浪士がともに葬られている泉岳寺(東京都港区)。もともと浅野氏の菩薩寺でもある。
「忠臣蔵」
1748年に人形浄瑠璃として初演された「仮名手本忠臣蔵」が、現在のさまざまな「忠臣蔵」の原型といえる。物語は室町時代に時代背景を借りて描かれている。
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幕藩体制の展開
幕政の安定
元禄時代
松の廊下刃傷事件
江戸城松の廊下には、赤松が生える海原に千烏が飛び交うのどかな情景が襖絵に描かれていた。雅びやかなこの廊下で、1701(元禄14)年3月14日、刃傷事件がおこった。勅使・院使を迎える直前の緊迫した空気のなかで、勅使接待の馳走役浅野内匠頭長矩(1667〜1701,赤穂城主、35歳)は高家の吉良上野介義央(1641〜1702,61歳)に小刀をふるって刃偏に及んだ。吉良の逃げまどった跡には、松の廊下から桜の間にか
けて、畳一面に血が散ったという。取り押えられた浅野長矩は、幕府により即日切腹が命じられ、さらに浅野家は断絶に処せられた。天皇からの勅使饗応の儀礼が重視されるなかで発生したこの時代の武家社会の矛盾を象徴する事件であった。
同時代の人物
レオポルト1世(神聖ローマ皇帝) (1640〜1705
ハンガリー王(在位1655年〜1705年)ハプスブルク帝国 ボヘミア王(在位1657年〜1705年)ハプスブルク帝国 オーストリア大公(在位1657年〜1705年)ハプスブルク帝国 神聖ローマ帝国ハプスブルク朝皇帝(在位1658年〜705年)