生類憐み令
1687(貞享4)年から22年間にわたって出し続けた、犬に限らず、小さな虫にいたる生類の殺生や虐待を禁じた種々の法令の総称。生類の対象は、動物だけではなく、捨て子、捨て病人の禁制や行倒れ人の保護など、人間の弱者にも向けられたことは注目される。殺生を禁じ、生あるものを放つ、仏教の放生ほうじょうの思想に基づく生類憐み令は、権力による慈愛の政治という一面をもっている。
生類憐み令
幕藩体制の展開
幕政の安定
元禄時代
幕府は、1687(貞享4)年から22年間にわたって、犬に限らず、小さな虫にいたる生類の殺生や虐待を禁じた種々の法令を出し続けた。それらの法令の総称が「生類憐み令」である。例えば、犬の喧嘩には水をかけて怪我をさせぬように引き分けること、と命じた。これを脇差を抜いて引き離し、そのあげくに犬を切ったということで、八丈島に流罪になった例などがある。また生類の対象は、これら動物だけではなく、捨て子、捨て病人の禁制や行倒れ人の保護など、人間の弱者にも向けられたことは注目される。殺生を禁じ、生あるものを放つ、仏教の放生の思想に基づく生類憐み令は、権力による慈愛の政治という一面をもっている。しかし、武士・農民・町人など大部分の人々にとって、行き過ぎた動物愛護の命令は迷惑なものであった。とくに江戸の四谷・大久保・中野につくられた犬小屋の犬の飼育料を負担させられた関東の農民や江戸町人の迷惑は大きかった。
綱吉政権は、力の弾圧でかぶき者を取り締まったうえに、戦国以来の武力に頼って上昇をはかろうとする価値観を、生類憐み令と服忌令の二つの法令を出すことで、社会全体の価値観ごと変化させた。
犬喰い
かつて江戸では武家も町方も、下々の食べ物として犬にまさるものはなく、とくに冬場は犬をみかけしだいに殺して食べたという(大道寺友山『落穂集』)。会津藩の江戸屋敷で、奉公人たちが犬喰いをしていた話も残っている。これら犬喰いの事例は、いずれも生類憐み令以前のことで、元禄時代以降、今日まで犬喰いの習慣は日本にはない。社会の価値観変化の一例である。