突厥 (
A.D.552〜A.D.744)
6世紀にアルタイ山脈を本拠地とするトルコ系騎馬遊牧民国家。はじめ柔然に服属していたが、優れた製鉄技術や「草原の道」の交易の利によって力を蓄え、木汗可汗のとき柔然を滅ぼし、ササン朝のホスロー1世と結んでエフタルを滅ぼしてモンゴル高原からカスピ海にいたる大帝国を樹立。583年内紛によりモンゴル高原を本拠地とする東突厥と、中央アジアを本拠地とする西突厥に分裂。
突厥
首都:ウテュケン山
内陸アジア世界の変遷
遊牧民とオアシス民の活動
内陸アジアの風土と人々
オアシス地帯では、東西の交易が行われ、オアシスの道(絹の道、シルク・ロード)が生まれた。交易の中心となったのは、イラン系ソグド人であったが、周辺民族の干渉も盛んであった。このため、6世紀には突厥の支配がおよび、9世紀にウイグル人の移住が進んでからは、トルコ系の要素が強くなり、 トルキスタンと呼ばれるようになった。またこのころからイスラーム化も一段と進んだ。
- 内陸アジアの風土と人々 – 世界の歴史まっぷ
内陸アジアの新動向
6世紀になると、アルタイ山脈を本拠地とするトルコ系の突厥(トルコ系騎馬遊牧民の国家。)が目覚ましい発展をとげた。
突厥ははじめ柔然に服属していたが、優れた製鉄技術(アルタイ山脈は鉄鉱の産地であった)や「草原の道」の交易の利によって力を蓄え、木汗可汗のとき柔然を滅ぼし(555)、ササン朝のホスロー1世と結んでエフタルを滅ぼして(567)、モンゴル高原からカスピ海にいたる大帝国を樹立した。以後、突厥およびこれにかわったウイグル(回鶻)と、内陸アジアの草原地帯はしばらくトルコ民族の制圧するところとなり、中国の強敵として隋、唐帝国(唐王朝)と交戦を重ねることになった。
583年、突厥は内紛によって、モンゴル高原を本拠地とする東突厥と、中央アジアを本拠地とする西突厥に分裂した。
東突厥
隋との力関係で劣勢となった東突厥は隋(王朝)に服属したが、隋が滅びると勢力を回復し、連年のように唐に入寇した。しかし、やがて内紛と唐(王朝)攻撃により、630年に東突厥国家(第一可汗国)は崩壊する。以後、東突厥は唐(王朝)羈縻支配下に入ったが、682年にいたって唐(王朝)支配下から離脱し、ふたたびモンゴル高原に強大な国家を樹立した。これを第二可汗国と呼ぶ。
西突厥
一方、西突厥は、652年、唐(王朝)攻撃をうけて滅亡した。
突厥文字
なお、突厥は突厥文字をつくったが、これは内陸アジアの遊牧民が使用した最初の文字である(アラム文字・ソグド文字両起源説がある)。
第二可汗国時代にオルコン河畔に建立された碑文(突厥碑文)は、突厥の歴史や文化、古代トルコ語に関する貴重な資料であり、19世紀末、デンマークのトムセンは、同碑文をもとに突厥文字を解読した。
滅亡
8世紀に入ると、突厥に服属していたトルコ系の鉄勒(チュルク)部族のひとつ、ウイグルが有力となり、744年、東突厥(第二可汗国)を滅ぼした。
トルコ化とイスラーム化の進展
突厥・ウイグルとソグド人
内陸アジアの歴史は、軍事力、機動力に優れた遊牧民と、経済力と先進的文化の担い手たるオアシス民の、相互補完的な共生・共存関係によって織りなされる。両者がたがいの長所を利用し合う共存関係が円滑に成立したとき、内陸アジアには強大な帝国が形成される。
6〜7世紀における突厥とソグド人、13世紀におけるモンゴルとウイグル人(天山ウイグル)の関係などはその典型的な例である。
6世紀にトルコ系の突厥が勃興して、内陸アジアの草原を統一し、広大な遊牧帝国を樹立すると、中央アジアのオアシス民の経済活動も活性化した。とりわけアム川・シル川の中間地帯を中心とするオアシス郡(サマルカンド、ブハラ、タシュケント、ヘラートなど)を本拠地とするイラン系ソグド人の活動はめざましく、彼らはシルク・ロード沿いの各地に根拠地を設けつつ、東は中国から西は東ローマ帝国にも進出して、内陸アジア隊商貿易の利権を独占した。
突厥に変わり8世紀に草原の覇者となったトルコ系のウイグルにおいても、ソグド人との共存関係は維持され、唐朝〜ウイグル間の「絹馬交易」の担い手として、唐都長安には常時1000人を超えるソグド人が常駐していたという。
東アジア世界の形成と発展
東アジア文化圏の形成
隋の統一
煬帝は外征にも力を注ぎ、東突厥や高句麗、ベトナムの林邑(チャンパー)などへの遠征をおこなったが、これらも民衆の困苦を増やすものであった。
唐の建国と発展
太宗(唐)は国内においては、諸制度を整備して唐(王朝)国家体制の基盤を確立し、対外的には、最大の強敵であった東突厥を撃破し、西北遊牧民族の首長から天下汗の称号を贈られるなど、大いに唐(王朝)国力を伸張させた。このため太宗(唐)の治世は、古来より貞観の治と称されて讃えられている。
高宗(唐)時代には、西は西突厥を大破して滅亡に追い込み、アラル海にいたる西域を支配下におさめ、東は新羅と結んで、高句麗・百済を滅ぼすなど、唐(王朝)領土は最大に達した。
玄宗の政治と唐の衰退
9世紀後半になると、唐(王朝)衰退はいよいよ進行し、政治腐敗によって民衆の生活は困窮の度を増した。こうした中、塩の密売商人で科挙の落第生ともいわれる黄巣が、仲間の王仙芝とともに挙兵すると、窮乏した民衆がつぎつぎと参加して巨大な民衆反乱となった( 黄巣の乱 875〜884)。
黄巣軍は全中国を荒らしまわり、長安を占領して勢力をふるったが、反乱軍から寝返って唐朝の汴州節度使となった朱全忠や突厥沙陀部の援軍により、かろうじて鎮圧された。
アジア・アメリカの古代文明
東アジア諸地域の自立化
唐末五代の社会
唐末、黄巣の乱を鎮圧するのに功のあった節度使出身の朱全忠(太祖)は、907年、唐を倒して後梁をたて、大運河と黄河の接点にある汴州(開封)に都を定めた。以後、河北には後梁・後唐・後晋・後漢(五代)・後周の5王朝が交替し、その他の地方でも節度使が割拠して10国をたて、約50年間の分裂時代が続いた。この時代を五代十国と呼ぶ。
諸地域の世界の交流
東西文物の交流
人物の往来
玄奘のインド旅行
玄奘は、唐初に陸路によってインドに赴いた僧侶で、彼の口述による『大唐西域記』は、旅行記として当時の西域やインドの様子を知るために重要なものである。また彼は、後世『西遊記』の三蔵法師として庶民にも親しまれることとなった。
彼の青春時代は、隋から唐への混乱時代で、社会不安を背景に、仏教教理の研究が盛んであった。仏教教理の中でも特に難解な唯識の教理を探求していた彼は、直接サンスクリット経典を研究することを思い立った。
唐ははじめ、対外関係上、外国への旅行を禁じていたので、国禁を犯しての出国となった(629)。彼のとったルートは玉門関から天山北路をとり、高昌(トゥルファン)を経て、西突厥の援助などを受けながら、サマルカンドを経てアフガニスタン、西北インドへと進んだ。当時のインドは、ハルシャ・ヴァルダナ(在位:606〜647)の治世で、北インドではグプタ朝以来しばらくぶりの平安な時代であった。ハルシャ・ヴァルダナは仏教を保護したので、インド仏教の最後の繁栄の時代でもあった。しかし、かつての仏教の聖地ガンダーラはすでに荒廃しており、ガンジス川中流域(ビハール州南部)のナーランダーを訪れて、5年間勉学に没頭した。ハルシャ・ヴァルダナの援助も受けて、多数の経典や仏像を携えて帰国の途についた。