第2インターナショナル (国際社会主義者大会)( A.D.1889〜A.D.1916)
1889年にパリで結成された、社会主義実現を掲げる国際的な労働者組織。国ごとの加盟組織の連合体で、帝国主義が激化するなか反戦平和を掲げた。しかし第一次世界大戦が勃発すると、ヨーロッパ諸国の加盟政党のほとんどは自国政府の戦争遂行政策を支持したため、大戦下に活動が麻痺した。
第2インターナショナル
- 1889年にパリで結成された国際的な労働者組織。主流はマルクス主義であるが、国民国家の時代を反映して、国ごとの加盟組織の連合体であった。ドイツ社会民主党が主導的地位を占め、アジアからは1901年に日本が加盟した。
- 1889年にパリで結成された、社会主義実現を掲げる国際的な労働者組織。国ごとの加盟組織の連合体で、帝国主義が激化するなか反戦平和を掲げた。しかし第一次世界大戦が勃発すると、ヨーロッパ諸国の加盟政党のほとんどは自国政府の戦争遂行政策を支持したため、大戦下に活動が麻痺した。
欧米における近代国民国家の発展
ヨーロッパの再編
国際的諸運動の進展
フランス革命百年祭を迎える1889年、パリで第2インターナショナル(国際社会主義者大会 1889〜1914)が結成された。この組織には、ドイツの社会民主党、イギリスの労働党、フランスの社会党などが参加し、大衆運動の展開やメーデーの施行など、世界各国の労働運動の基礎を固めることに成果をあげた。しかし、それぞれの政党が各国の議会内部において有力になるにつれ、闘争方法は穏健化し、改良主義的な傾向をもつようになった。第一次世界大戦が勃発する直前、フランス社会党のジョレス Jaurès (1859〜1914)が暗殺されたり、またドイツでも戦争に反対した国会議員カール=リープクネヒトただひとりだったというように、ナショナルな傾向が顕著となり、第一次世界大戦が勃発すると解散した。
帝国主義とアジアの民族運動
帝国主義と列強の展開
第2インターナショナル
パリ=コミューン後に国際労働者協会(第1インターナショナル)が解散してからは労働者の国際的な連帯をめざす組織はなくなった。その後、工業化の進展とともに各国の労働組合や社会主義の運動が大衆的基盤をもちはじめたころ、労働者の国際会議も再び開かれるようになった。フランス革命百周年を迎えた1889年、パリで国際労働者大会が開かれ、翌90年5月1日を機に示威行動を取ることを決議した。これがメーデーの起源であり、この大会が第2インターナショナルの事実上の発足であった。96年の大会でアナーキストを排除し、マルクス主義が主流となるとともにドイツ社会民主党が主導権を握り、イギリス労働党やフランス社会党が協力した。加盟国の大半はオランダ・ベルギー・オーストリア=ハンガリー、それにロシアを含むヨーロッパの社会主義者であり、アジアから参加したのは日本だけであった。各大会では8時間労働日などの労働条件の改善、労働組合と社会主義政党との関係、植民地問題、女性問題などが論じられた。1905年のモロッコ事件以降国際情勢が緊迫していくなかで、07年のシュトゥットガルト大会、12年のバーゼル臨時大会では、革命の脅しをかけてでも帝国主義戦争を防止することが労働者階級の義務であるという反戦決議が採択された。しかし、各国の社会主義政党も植民地統治を認めたり、自国の帝国主義政策には甘い判断を下すなど、結束も乱れはじめた。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ社会民主党をはじめ英・仏など各国の社会主義・労働者政党は戦争政策への協力に転じ、第2インターは事実上崩壊した。しかし、戦時中の1915年9月、戦争協力に反対する社会主義者たちはスイスのベルン近郊のツィマーヴァルトに結集し反戦連帯運動の再建を試みた。
近代国家の成立
日露戦争と国際関係
日露戦争
非戦論
日露戦争に対する国民の熱狂的歓呼が渦巻くなかで、少数ながら戦争反対を唱えた人々もあった。内村鑑三はキリスト教的人道主義の立場から非戦論を説き、幸徳秋水・堺利彦(1870〜1933)ら社会主義者は初め『万朝報』、のち『平民新聞』によって反戦論を展開し、開戦後もロシアの社会主義者に反戦を呼びかけた ❶ 。また与謝野晶子(1878〜1942)は、日本軍の旅順攻撃が続けられているころ、これに加わっている弟の無事を祈って、戦争への疑問をこめた詩「君死にたまふこと勿れ」を発表した。
57.帝国主義の成立
帝国主義の成立
第2次産業革命が進行すると、欧米先進国では大衆的な労働運動や社会主義運動が盛んになった。1889年、パリに各国の労働運動組織が集まり、第2インターナショナルが結成された。第2インターナショナルでは、ドイツ社会民主党が中心となり、帝国主義や軍国主義への反対運動を組織した。しかし、社会主義者のなかにも、植民地統治を認めたり、自国の利害を重視する傾向が現れたため、その結束は乱れはじめ、第一次世界大戦の開始とともに事実上解散した。
63.第一次世界大戦
第一次世界大戦の勃発
1914年6月、オーストリアの帝位継承者夫妻が、ボスニアの州都サライェヴォでセルビア人の民族主義者によって暗殺された(サライェヴォ事件)。オーストリアはスラヴ系民族運動をおさえる好機とみて、ドイツの支持を得てセルビアに宣戦すると、ロシアはセルビア支援を表明した。他の列強諸国も同盟・協商関係にしたがってつぎつぎに参戦し、ドイツ・オーストリアなどの同盟国側と、フランス・ロシア・イギリス・日本などの協商国(連合国 )側に分かれて戦った。その後、オスマン帝国・ブルガリアが同盟国側で参戦し、イタリアは三国同盟から離脱した。反戦を掲げた第2インターナショナルは、参戦国の社会党の多くが自国政府を支持したため事実上解体し、主要参戦国では、諸政党が結束して政府を支持する挙国一致体制が成立した。