菅原道真 (845(承和12)年〜903(延喜3)年)
平安時代前期の公卿、学者。
菅原是善の3男。文章博士。忠臣として名高く、宇多天皇に重用され、寛平の治を支えた一人となる。894(寛平6)年、遣唐使の中止を建議。
醍醐朝で右大臣となるが、左大臣藤原時平に讒訴されて大宰権帥として左遷され、現地で没した。その祟りをおそれて正一位、太政大臣を追贈され、天満大自在天神として信仰された。
菅原道真
貴族政治と国風文化
摂関政治
藤原氏北家の発展
藤原氏は、鎌足やその子不比等が律令国家の建設に大きな役割を果たしたこともあって、他の氏族に比べて、早くから律令制的な官僚貴族としての道を歩んでいた。
他の氏族、例えば大伴氏などは、奈良時代になっても宮の守衛や軍隊の統率といった律令制以前からの氏としての職務に固執し、そのような職務に対する意識を強くもっていた。これに対して藤原氏は、鎌足や不比等などの功績や光明子の立后を背景に、国政運営の最高機関である太政官に数多くの公卿を送り込み、8世紀末には特に藤原宇合の子孫である式家が、藤原百川・藤原種継らを出して有力となった。
しかし9世紀初めの嵯峨天皇の時代になると、式家は平城太上天皇の変(薬子の変)を契機として衰える。また同じころ、蔵人頭や検非違使の創設などによって天皇の権力が強まると、律令制以前からの天皇に対する貴族の伝統的な奉仕関係が消滅し、これにかわって、天皇との個人的な結びつきが貴族の朝廷での地位を左右するようになった。
この時代、「天皇との個人的結びつき」を支える要素としては、①文人としての教養、②管理としての政務能力、③天皇の父方の身内、④天皇の母方の身内、などがあった。
- ①は9世紀の漢文学隆盛の風潮のなかで、大学で紀伝道を納めた学生が、天皇に注目されて昇進をとげるというもので、9世紀後半、宇多天皇に重用された菅原道真がその代表である。
- ②は儒教的思想に裏打ちされた政治理念の持ち主や、実務的な官吏として優れた能力を発揮した者、国司・将軍として任地で功績をあげた者などが公卿の地位まで登りつめるというケースである。桓武天皇の時代では、征夷大将軍として活躍した坂上田村麻呂や徳政相論で藤原緒嗣と論争した菅野真道が著名で、仁明天皇に登用された伴善男もこのグループである。
- ③は嵯峨天皇がその皇子・皇女に源朝臣の姓を与えて(嵯峨源氏)以来、歴代の天皇がそれにならった「賜姓源氏」で、その出自の高さから多くの公卿を出すことになる。
- ④はいわゆる外戚である。9世紀前半には、藤原氏以外にも、桓武天皇の母を出した渡来系の和氏、嵯峨天皇の皇后で仁明天皇の母である橘嘉智子を出した橘氏などから、外戚であることによって高い地位につく貴族が現れた。
891(寛平3)年、基経が死去すると、宇多天皇は基経の長男藤原時平とともに、当時文人・学者として名高かった菅原道真を抜擢し、道真は続く醍醐天皇の時代に右大臣にまで昇った。しかし娘を宇多天皇の皇子の妃としたことが警戒され、901(延喜元)年、時平の陰謀によって大宰府に左遷され、その地で死去した。これは藤原氏による①のタイプの貴族の抑圧とすることができよう。
生涯
- 貞観4年(862年)道真は幼少より詩歌に才を見せ、18歳で文章生となる。
- 貞観9年(867年)には文章生のうち2名が選ばれる文章得業生となり、正六位下・下野権少掾に叙任される。
- 貞観12年(870年)方略試に中の上で合格し、位階を進め、正六位上となった。玄蕃助・少内記を経る。
- 貞観16年(874年)従五位下に叙爵し、兵部少輔ついで民部少輔に任ぜられる。
- 元慶元年(877年)式部少輔次いで世職である文章博士を兼任する。
- 元慶3年(879年)従五位上。
- 元慶4年(880年)父・菅原是善の没後は、祖父・菅原清公以来の私塾である菅家廊下を主宰、朝廷における文人社会の中心的な存在となる。
- 仁和2年(886年)讃岐守を拝任、式部少輔兼文章博士を辞し、任国へ下向。
- 仁和4年(888年)阿衡事件に際して、入京して藤原基経に意見書を寄せて諌めたことにより、事件を収める。
- 寛平2年(890年)任地より帰京する。
これまでは家格に応じた官職についていたが、宇多天皇の信任を受けて、以後要職を歴任することとなる。皇室の外戚として権勢を振るっていた関白・藤原基経亡き後の藤原氏にまだ有力者がいなかったこともあり、宇多天皇は道真を用いて藤原氏を牽制した。
- 寛平3年(891年)蔵人頭に補任し、式部少輔と左中弁を兼務。翌年従四位下に叙せられる。
- 寛平5年(893年)参議兼式部大輔(まもなく左大弁を兼務)に任ぜられ、公卿に列する。
- 寛平6年(894年)遣唐大使に任ぜられるが、唐の混乱や日本文化の発達を理由とした道真の建議により遣唐使は停止される。
- 延喜7年(907年)唐が滅亡。
- 寛平7年(895年)参議在任2年半にして、先任者3名(藤原国経・藤原有実・源直)を越えて従三位・権中納言に叙任。
- 寛平8年(896年)長女衍子を宇多天皇の女御とする。
- 寛平9年(897年)三女寧子を宇多天皇の皇子・斉世親王の妃とし、皇族との間で姻戚関係の強化も進めた。宇多朝末にかけて、左大臣の源融や藤原良世、宇多天皇の元で太政官を統率する一方で道真とも親交があった右大臣の源能有ら大官が相次いで没する。
- 寛平9年(897年)6月に藤原時平が大納言兼左近衛大将、道真は権大納言兼右近衛大将に任ぜられ、この両名が太政官のトップに並ぶ体制となる。7月に入ると宇多天皇は醍醐天皇に譲位したが、道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平と道真にのみ官奏執奏の特権を許した。醍醐天皇の治世でも道真は昇進を続けるが、道真の主張する中央集権的な財政に、朝廷への権力の集中を嫌う藤原氏などの有力貴族の反撥が表面化する。現在の家格に応じたそれなりの生活の維持を望む中下級貴族の中にも道真の進める政治改革に不安を感じて、この動きに同調するものがいた。
- 昌泰2年(899年)右大臣に昇進して、時平と道真が左右大臣として肩を並べたが、儒家としての家格を超えて大臣に登るという道真の破格の昇進に対して妬む廷臣もいた。
- 翌昌泰3年(900年)文章博士・三善清行が道真に止足を知り引退して生を楽しむよう諭すが、道真はこれを容れなかった。
- 昌泰4年(901年)正月に従二位に叙せられたが、間もなく醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀ったと誣告され、罪を得て大宰員外帥に左遷される。宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、醍醐天皇は面会しなかった。また、長男の高視を初め、子供4人が流刑に処された(昌泰の変)。この事件の背景については、時平による全くの讒言とする説から宇多上皇と醍醐天皇の対立が実際に存在していて、道真が巻き込まれたとする説まで諸説ある。
- 左遷後は大宰府浄妙院で謹慎していたが、延喜3年(903年)2月25日に大宰府で薨去し、安楽寺に葬られた。享年59。
道真が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名。その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」も有名である。
道真の左遷
北野天神縁起絵巻(国宝)
大宰府に左遷された右大臣菅原道真が恩師の御衣を見て、袖を顔に当てて悲嘆の涙を流している場面。このあと道真は、903年に59歳で亡くなった。
雷神となった道真の怨霊が清涼殿を襲い、左大臣藤原時平が太刀を抜いて雷神に立ち向かっている場面。時平は909年に39歳で亡くなり、道真の祟りと言われた。
和歌
- 此の度は 幣も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神の随に(古今和歌集 羇旅歌。この歌は小倉百人一首にも含まれている)
- 海ならず 湛へる水の 底までに 清き心は 月ぞ照らさむ(新古今和歌集 雑歌下。大宰府へ左遷の途上備前国児島郡八浜で詠まれた歌で硯井天満宮が創建された。「海ならず たたえる水の 底までも 清き心を 月ぞ照らさん」)
- 東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな(初出の『拾遺和歌集』による表記。後世、「春な忘れそ」とも書かれるようになった)
- 水ひきの 白糸延へて 織る機は 旅の衣に 裁ちや重ねん(後撰和歌集巻十九)〈今昔秀歌百撰23選者:松本徹〉
参考 Wikipedia