護国寺 ごこくじ
東京都文京区大塚にある新義真言宗豊山派の寺。神齢山悉地院と号する。1681(天和元)年、5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の発願により、上野国(群馬県)碓氷八幡宮の別当、大聖護国寺の亮賢僧正を招き開山とした。1717(享保2)年神田にあった護持院が焼けたのち、護持院と称したが、明治になって護国寺という名に戻った。
護国寺
東京都文京区大塚にある新義真言宗豊山派の寺。神齢山悉地院と号する。天和1(1681)年、徳川綱吉の生母桂昌院の願によって創立したもの。亮賢の開基。享保2(1717)年神田にあった護持院が焼けたのち、護持院と称したが、明治になって護国寺という名に戻った。
参考 ブリタニカ国際大百科事典
歴史
当寺の創建は天和元年2月(1681)、5代将軍徳川綱吉公が、その生母、桂昌院の発願により、上野国(群馬県)碓氷八幡宮の別当、大聖護国寺の亮賢僧正を招き開山とし、幕府所属の高田薬園の地を賜い、堂宇を建立し、桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像を本尊とし、号を神齢山悉地院護国寺と称し、寺領三百石を賜ったことに始まる。翌2年、堂宇は完成した。
明治16年、大正15年と火災で堂宇の多くを失ったが、観音堂(本堂)は元禄以来の姿を変えず、また、近江三井寺より移築された月光殿(重文)は桃山期の建築美を今に伝えている。その他、薬師堂、大師堂、多宝塔、忠霊堂や創建当時のものと伝えられる仁王門、惣門。そして中門と多くの堂宇が保存、または再建されている。また、元禄文化の粋を集めた書画・什器の他、国宝、重要文化財等の数多くが寺宝とされている。
震災、戦災と二度の大災害に襲われた東京の都心にありながら、江戸の面影を今に伝える当寺の姿は、訪れる人々の心のふれあいの場として、昔も今も変りなく親しまれている。
観音堂(本堂)
現在の観音堂(本堂)は、1697(元禄10)年正月、観音堂新営の幕命があり、約半年余りの工事日数でこの大造営を完成し、同年8月落慶供養の式典が挙げられた。また元禄時代の建築工芸の粋を結集した大建造物で、その雄大さは都内随一のものと賞され、しかも震災・戦災と二度の大災害にも襲われながら姿も変えず、江戸の面影を今に伝え、訪れる人々に安らぎの場として親しまれている。
参考 大本山 護国寺
幕藩体制の展開
幕政の安定
元禄時代
綱吉は、儒教のほかに仏教・神道・陰陽道を支持して、寺社の造営も大いに行った。壮大な護国寺・護持院を建立したほか、東大寺大仏殿の再建や法隆寺諸堂の修復、寛永寺本坊の再建を行った。伊勢神宮や熱田社などの神社造営や湯島聖堂の建立も行った。これらの費用は、諸大名の手伝普請や全国勧化に依存するものもあったが、幕府の自普請も多く、1685(貞享2)年の日光山堂社修復に金1万4327両、翌年の熱田社には金9114両を江戸の金蔵から支出している。そのほか、幕府は1688(元禄元)〜96(元禄9)年の間に、延べ34寺社の普請に約22万9269両の支出を行っている。綱吉政権期の寺社造営、修復費は、およそ70万両との計符もある。
江戸幕府初期から続いた比較的豊かだった鉱山収入も、この時期に減少し、金銀の産出量低下はただちに幕府財政の収入減につながった。また明暦の大火後の江戸城や市街の再建費用と、引き続く元禄期の寺社造営費用は、大きな支出増となって幕府財政の破綻を招くことになった。
参考