阿部正弘 あべまさひろ( A.D.1819〜A.D.1857)
備後国福山藩主。1843年に老中、45年に老中首座。ペリー来航以後、幕政の責任者として外交方針を指示。諸大名・幕臣にも方針を諮問して挙国一致策をとり、公議世論の政治を行う。日米和親条約締結後は幕府独裁を改めて公武強調をはかり、安政の改革を実施。
阿部正弘
備後国福山藩主。1843年に老中、45年に老中首座。ペリー来航以後、幕政の責任者として外交方針を指示。諸大名・幕臣にも方針を諮問して挙国一致策をとり、公議世論の政治を行う。日米和親条約締結後は幕府独裁を改めて公武強調をはかり、安政の改革を実施。
開明政治を主導した老中首座
天下に広く意見を募り決断を下した条約締結
1853年(嘉永6)6月、ペリー率いる艦隊が、アメリカ大統領の親書を携えて浦賀沖に来航した。時の老中首座であった阿部正弘は、従来の譜代大名、旗本らを中心とする幕府専制の慣例を破り、開国と条約締結というアメリカの要求にどう対処すべきか、有力諸大名や幕臣から広く意見を募った。正弘は事態を穏便にまとめる形で翌年3月に日米和親条約を締結。日本は開国への第一歩を踏み出した。正弘は大船の建造許可や品川沖のお台場建築など海防を強化。講武所、海軍伝習所、洋学所を創設して、西洋の兵制や砲術、科学の摂取に尽力した。
また、勝海舟、岩瀬忠震、川路聖護といった下級幕臣を登用した。1857年(安政4)、病に倒れ39歳の若さで死去した。難局に当たって冷静な舵取りをした政治家として、その早世を惜しむ声は多い。
近代国家の成立
開国と幕末の動乱
開国
1853(嘉永6)年にペリーが来航した直後、老中阿部正弘(1819〜57)はペリーの来日とアメリカ大統領国書について朝廷に報告し、先例を破って諸大名や幕臣に国書への回答について意見を提出させた。幕府は、朝廷や大名と協調しながらこの難局にあたろうとしたが、この措置は朝廷を現実政治の場に引き出してその権威を高めるとともに、諸大名には幕政への発言の機会を与えることになり、幕府の専制的な政治運営を転換させる契機となった。また、幕府は越前藩主松平慶永(1828-90)·薩摩藩主島津斉彬(1809〜58)·宇和島藩主伊達宗城(1818〜92)らの開明的な藩主の協力も得ながら、幕臣の永井尚志(1816〜91)·岩瀬忠震(1818〜61)・川路聖謨(1801〜68)らの人材を登用し、さらに前水戸藩主徳川斉昭(1800〜60)を幕政に参与させた。
国防を充実させるため、江川太郎左衛門に命じて江戸湾に台場(砲台)を築き、武家諸法度で規定した大船建造の禁を解き、長崎には洋式軍艦の操作を学ばせるための海軍伝習所、江戸には軍事を中心とした洋学の教育・翻訳機関としての蕃書調所、幕臣とその子弟に軍事教育を行う講武所を設けるなどの改革(安政の改革)を行った。また、諸藩でも水戸・鹿児島・萩·佐賀藩などでは、反射炉の建造、大砲の製造、洋式の武器や軍艦の輸入などによる軍事力の強化をはかった。
アジア諸地域の動揺
東アジアの激動
明治維新
19世紀になると、アメリカが日本を捕鯨船の補給基地と中国貿易の寄港地として目をつけるようになり、1853年、ペリー Perry (1794〜1858)の率いるアメリカ艦隊(黒船)が浦賀に来航し、日本の開港を求めた。幕府では開国か攘夷かをめぐって激しい対立があった。しかし老中阿部正弘(1819〜57)らは、開国は避けられぬ情勢にあると判断し、翌1854年、日米和親条約(神奈川条約)を締結して、下田・箱館(函館)の2港を開港した ❶ 。
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