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項羽こうう (項籍)( B.C.232〜B.C.202)

秦末の楚の武将。「四面楚歌」や虞美人の故事で知られる。楚の懐王を義帝とし、みずからは西楚の覇王となるが、垓下の戦いで劉邦に敗れ、烏江において自殺した。

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秦末の楚の武将。「四面楚歌」や虞美人ぐびじんの故事で知られる。楚の懐王を義帝とし、みずからは西楚の覇王となるが、垓下の戦いで敗れ、烏江うこうにおいて自殺した。

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強さを誇るも「四面楚歌」となり敗北

始皇帝が没した翌年、陳勝・呉広の乱が起きると、の名門出身・項羽も挙兵した。秦の将軍・章邯しょうかん率いる大軍をも撃破。連戦連勝して首都咸陽かんようへ乗り込んだ。皇族たちを処刑。秦を滅ぼし、秦兵20万人の捕虜も生き埋めにした。しかし咸陽にはすでに劉邦がいた。功績を横取りされたと感じ、項羽は激怒したが、伯父・項梁こうりょうの仲介で催された酒宴で劉邦が謝罪。項羽は劉邦と和睦した(鴻門の会こうもんのかい)。項羽は咸陽を焼き払い、略奪を行って楚へ帰国。自ら「西楚せいその羅王」と名乗った。しかしその圧倒的な力と強さは人民に恐れを抱かせた。各地で項羽に対する反乱が勃発すると、これを機に劉邦率いる「漢軍」との戦闘に発展。徐々に力をつける劉邦に対し、各地の反乱鎮圧に手を焼く項羽は次第に劣勢になる。また、劉邦側の計略で范増はんぞうに疑惑を抱いたことが原因で、范増を引退させてしまう。

垓下の戦いでついに項羽は30万の軍勢に取り囲まれた。祖国の楚の歌が敵軍から聞こえたことで、楚人の離反を知り絶望(四面楚歌)。28騎の兵と最後まで奮戦したが、逃亡せず自ら首をねた。

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項羽は垓下の戦いにおいて、愛人の虞美人ぐびじんに「垓下の歌」を贈った。
ちからは山を抜き気は世をおおう。時、利あらずしてすい(愛馬の名)逝かず。騅逝かざるは奈何いかんすべき。や、虞や、なんじ奈何いかんせん。」
悲痛な歌である。

私の力は(動かないものの代表である)山をも動かす程強大で、気迫は(広いものの代表である)この世の中をおおい尽くしてしまう程なのに。時勢は私に不利であり、(愛馬の)騅も進もうとしない。騅が進もうとしないのを、もはやどうする事もできない。(それよりも)虞よ、虞美人よ。そなたの事を一体どうすれば良いのか。

項羽は最後の戦いで、漢軍兵の中に旧知の部下がいるのを見つけると、自分の首に懸けられた褒賞をやろうと自刃した。しかし部下以外の兵も群がったため、死体は5つに切り分けられたという。
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秦を滅ぼし西楚の覇王と称する

長身で怪力の持ち主で才気も人にすぐれていた。秦の始皇帝は天下統一の後、全国を巡遊したが、それを目撃した項羽は思わず「彼にとって代わりたいものだ」と口にしたという。

始皇帝の死後、陳勝・広の乱をきっかけに天下が再び混乱すると、項羽は群雄のなかから瞬く間に台頭。秦を滅ぼして西楚の覇王と称するが、その論功行賞には不満の声が強かった。各地で反乱が起こるなか、それをまとめあげたのが漢王の劉邦だった。

「四面楚歌」の故事を生んだ悲運の最後

はじめのうちは項羽が優勢で、劉邦を何度もあと一歩のところまで追い詰めた。しかし、漢軍の離間の計にかかって軍師の范増を失ったあたりを境に、しだいに劣勢に立たされ、ついには垓下に包囲される。四面から漢軍のうたう楚の歌が聞こえるなか、項羽は愛姫をかたわらに決別の酒宴を開いたあと、包囲を突破。28騎の従者と共に長江岸辺の烏江うこうまで逃れ、奮戦したが、漢軍のなかに昔馴染みを見出すと、首をはねて自殺した。

略年表

  • 紀元前232年 誕生
  • 紀元前209年 陳勝・呉広の乱勃発。諸反乱に従い挙兵
  • 紀元前206年 劉邦と鴻門にて会す。秦を滅ぼし「西楚覇王」を称す。諸侯の反乱が勃発、楚漢戦争始まる
  • 紀元前202年 垓下の戦い。烏江にて自刃
項羽の学問:項羽は若い頃文字や剣道を習ったことがあるが、どちらもものにならなかった。兵法には興味を示したが、あらましを了解すると、もうそれ以上は学ぼうとしなかった。
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楚漢戦争 楚漢戦争 滎陽・彭城・九江地域要図
楚漢戦争 滎陽・彭城・九江地域要図 ©世界の歴史まっぷ

項羽が登場する作品

項羽と劉邦 King’s War

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項羽 ©中国国際電視総公司

「項羽と劉邦 King’s War」 項羽役 : ピーター・ホー。
名は籍(せき)。字が羽。秦末に楚の懐王(かいおう)に「公」に封じられる。鉅鹿(きょろく)の戦いで楚軍を統率し秦軍を破った。秦滅亡後は自ら西楚の覇王と名乗り、黄河及び長江下流の梁・楚の九郡を統治した。のちに楚漢戦争の垓下の戦いで劉邦に敗れ、東城まで逃亡した後、自ら命を絶った。性格は無鉄砲で、義理堅く、天下を愛するにも増して美女を愛した。項羽は中国数千年の歴史の中でも最も勇猛果敢で名高い武将であり、「覇王」と言えば項羽を指す。

同時代の人物

交通は船

弥生時代、交通の主な手段は船だった。土器や銅鐸には、縄文時代から使われていた丸木船や、多数の漕ぎ手と櫂を要する大型の船が描かれており、当時の様子を知ることができる。

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