長崎貿易
- 1655 相対貿易(自由貿易) 糸割符制度を廃止し、相対貿易とする
- 1672 市法商法 金銀流出防止のため市法会所を設置
- 1685 御定高制 市法廃止、糸割符制度を復活、貿易額を制限
- 1689 唐人屋敷設置 密貿易の取締りのため唐人屋敷を設置
- 1696 長崎会所設置 輸出品集荷の強化に向けて長崎会所を設置
- 1715 海舶互市新例 信牌(入港証)を用いた貿易額の制限
長崎貿易
「鎖国」により、貿易港は長崎1港に限られた。長崎に来航する貿易船は、オランダ船と中国船だけになった。オランダはバタヴィア(現ジャカルタ)においた東インド会社の一出張所として長崎の出島に商館をおき、貿易の利益を求めた。オランダ船は生糸や毛織物·絹織物·綿織物などの織物類や薬品・時計·書籍などをもたらした。反対に日本から輸出されたものは、初期には銀と銅、中期以降には伊万里焼や薩摩藩の樟脳が主であった。とくにアムステルダムで売り出された日本の磁器は人気を集め、伊万里焼や柿右衛門は貴重品とされ、王侯貴族に収集された。
オランダ人たちが自尊心を傷つけられ、しかも多くの経費を使ってまでも江戸参府を繰り返したのは、幕府による鎖国政策が東インド会社に独占的な貿易利益を与えたからにほかならない。
長崎には中国船も来航した。明代は長崎の町中に、中国人(唐人)が雑居するかたちで民間の町人との交渉をもってきた。明清交替で明が滅び清朝が樹立したのちは、清船が自国産の生糸・絹織物、書籍のほか、ヨーロッパからの綿織物・毛織物·南洋産の砂糖·蘇木・香木などをもたらした。幕府は1685(貞享2)年に貿易統制を行って糸割符制度を再興し、貿易額もオランダ船3000貫、清船6000貫に制限したが、さらに1688(元禄元)年に清船を年に70隻と限った。また幕府は翌年、長崎の町に唐人屋敷を完成させ、約3万㎡の屋敷内に清国人の居住を限定し、監視できるようにした。
明清交替
1616(元和2)年、中国北東部の女真の首長ヌルハチは、興京を首都にアイシン国(満州語)=後金国(中国語)を建て、帝位について明(王朝)を攻撃し、南下した。1625(寛永2)年には藩陽を都とし、36年には国号を清と改め、朝鮮を侵略し、さらに明(王朝)を攻めて44(正保元)年には、明の首都北京に遷都した。明朝の滅亡後、一族の福王が南京に、唐王が福州に、魯王や桂王も中国南部に亡命政権を樹立して、清に抵抗した。福州の唐王は、海商の鄭芝竜とその息子鄭成功(母は平戸の田川七左衛門の娘)を後ろ楯にした。国姓爺の名を与えられた鄭成功は、抗清のために日本に援軍と武具の支援を求めた。幕府は援兵を拒み、唐王政権も滅んだ。鄭成功は台湾に渡り抵抗を続けたが、1662(寛文2)年に死去した。また桂王も滅亡して清朝は安定した王朝となった。この間の明清交替を、江戸幕府は「華夷変態」と唱えた。漢民族(明)の中華が、女真(清)の夷秋にとって変わられたという意味である。
長崎貿易年表
年代 | 貿易仕法 | 内容 |
---|---|---|
1655 | 相対貿易(自由貿易 | 糸割符制度を廃止し、相対貿易とする |
1672 | 市法商法 | 金銀流出防止のため市法会所を設置 |
1685 | 御定高制 | 市法廃止、糸割符制度を復活、貿易額を制限 |
1689 | 唐人屋敷設置 | 密貿易の取締りのため唐人屋敷を設置 |
1696 | 長崎会所設置 | 輸出品集荷の強化に向けて長崎会所を設置 |
1715 | 海舶互市新例 | 信牌(入港証)を用いた貿易額の制限 |