卑弥呼 (生没年不詳)
3世紀初め頃、約三十の小国を従えた邪馬台国連合の女王。しばしば魏に朝貢し、「親魏倭王」の称号と金印紫綬や100枚の銅鏡、真珠など王位の象徴物を授けている。大陸外交を展開して、中国史書にその名をとどめた(『魏志』の「倭人伝」)。日本に関する記録上、名前が明らかにわかる最初の人物。
卑弥呼
多くの謎に包まれた邪馬台国の女王
中国の史書が語る邪馬台国の女王
『魏志』の「倭人伝」に、3世紀頃の日本に関する記述がある。そこには、「その国は、男子を王とし、とどまること70〜80年。倭国は乱れ、戦いが何年も続いた。そこで倭の国々はともにひとりの女子を立てて王にした。その名を卑弥呼という」と書かれている。
この卑弥呼こそ、日本の歴史の中で、確実に名前のわかる最初の人物である。ただし個人名ではなく、ヒメコ(日女子)、ヒノミコ(日の御子)、ヒメミコ(日女御子)などといつた首長の称号とみる説もある。
女王となった卑弥呼の姿を『魏志』の「倭人伝」は、「鬼道につかえ、よく衆を惑わす」と描いている。また「王となって以来、その姿を見る者少なく、婢1000人を侍らせた」とあり、卑弥呼が宮殿の奥深くにいた巫女ともいうべき存在であったことをうかがわせる。卑弥呼の言葉は、補佐役の弟によつて小国の権力者たちに伝えられた。深く身を隠すことによって、その存在をより神秘的に見せたのかもしれない。
また、卑弥呼は魏(三国)に使者を送っている。239年には、使者に男の生口(奴婢)4人と女の生口6人、それに布をもたせて遣わし、魏の皇帝に献上した。皇帝はこれに対し、卑弥呼に「親魏倭王」の称号を与え、金印紫綬や100枚の銅鏡、真珠など王位の象徴物を授けている。240年には魏の使者が邪馬台国に遣わされたり、243年にも邪馬台国が使者を送るなど、親善と友好が深められた。
卑弥呼の死後、男子の王が立てられるが、国内は再び争いが続いた。そこで卑弥呼の宗女(親族)で13歳の壱与(台与ともいう)を女王にしたところ、ようやく国中が平和になったという。
壱与は卑弥呼のあとを受けて、魏(三国)の皇帝や魏のあとに興った西晋王朝にも使者を送ったが、266年を最後に、邪馬台国は中国の史書からなぜか消えてしまった。
江戸時代から続く「邪馬台国論争」
江戸時代、新井白石や本居宣長から始まった、邪馬台国の所在地をめぐる論争は、明治時代に、著名な東洋史学者が真っ向から対立して、国民的関心を呼ぶ論争となった。九州説を主張する東京大学の自鳥庫吉と、畿内説を唱える京都大学の内藤湖南の熱き論争は、そのまま学閥論争となった。
考古学者の間では、畿内説を有利とする向きもあるが、決定的な考古資料が発見されない限り、この論争に終止符が打たれることはないだろう。
箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫命の墓とされる前方後円墳であるが、倭迹々日百襲姫を卑弥呼と考える説もある。
三角縁仏獣鏡。卑弥呼が授けられた鏡もこれと同じ型のものとする説もある。
三角縁神獣鏡 – 世界の歴史まっぷ
年表
邪馬台国関連年表
西暦 | おもなできごと |
---|---|
100年頃 | 国家成立か |
180年頃 | 「倭国乱れ、相攻伐すること歴年」の頃か。戦乱ののち、女王卑弥呼を擁立 |
239年 | 魏に使者を送る。「親魏倭王」の称号と金印紫綬と銅鏡100枚を賜る |
143年 | 邪馬台国の使節が帯方郡へ派遣される |
240〜249年頃 | 卑弥呼死去か |
266年 | 倭の女王が晋に遣使 |
ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで
日本文化のあけぼの
農耕社会の成立
邪馬台国連合
中国大陸では、220年に後漢が滅び、北方の魏(三国)、南方の呉、西方の蜀が並び立つ三国時代(中国)を迎えた。この時代の歴史書である『三国志』の中の『魏志』倭人伝には、3世紀前半から中葉の倭の情勢がかなり詳しく書かれている。
それによると、倭は2世紀の終わりころに大変乱れて、国々は互いに攻撃しあって年が過ぎた。そこで国々が共同で邪馬台国の女王卑弥呼を立てて王としたところ、ようやく乱はおさまり、邪馬台国を中心とする30国ばかりの小国の連合が生まれた。
卑弥呼は239年に魏(三国)の皇帝に遣いを送って、男女の生口(奴隷)10人や織物を献じ、「親魏倭王」の称号とその金印紫綬、さらにさまざまな織物、金8両、五尺刀2口、銅鏡100面などを与えられた。
卑弥呼は「鬼道を事とし、能く衆を惑はす」とあり、巫女として神の意志を聞く事に優れていたらしく、長じても夫はなく、政務は弟がとったという。まだ神を祀ることと政治が未分化の祭政一致の段階であったことがうかがわれる。
社会には、大人と下戸の明確な身分差があり、下戸が大人と道で会った時には後ずさりして道端の草むらに入り、話をする場合には、うずくまったり、あるいはひざまずいて、両手を地面につけたという。
大人は皆4〜5人の妻をもち、下戸でも2〜3人の妻をもつものもいた。
倭人の間には、泥棒もいないし、訴訟も少ない。法を犯した場合は、軽い者ではその妻子を取り上げ、重い者ではその家族や一族を殺した。
人々に租・賦の税を納めさせ、それらを収納するための邸閣がある。
国々には市場があって、人々は有無を交換しあっている。
邪馬台国は、それより北方の国々に対し、特に一大率という役人を置いて監視させており、それは常に北部九州の伊都国に置かれている。
正始8(247)年、卑弥呼は、魏(三国)の植民地出会った帯方郡に使いを送り、もとから不和であった南の狗奴国との戦いの有様を報告している。
その後、卑弥呼が亡くなった時、倭人たちは、直径百余歩の大きなつかをつくり、百余人の奴隷が殉葬された。
卑弥呼の後継者として男の王を立てたが、国中が服従せず、互いが殺しあった。そこで再び卑弥呼の宗女の壱与(壹與)という13歳の女子を立てて王としたところ、国中はようやくおさまったという。
この30国ばかりの小国連合の中心となった邪馬台国の所在については、北部九州に求める説と近畿地方の大和に求める説が対立している。
近畿説をとれば、すでに近畿地方から北部九州に及ぶ広域の政治連合が成立していたことになり、のちのヤマト政権と直接つながることになる。
また九州説をとれば、邪馬台国連合は北部九州を中心とする比較的小範囲のもので、のちのヤマト政権はそれとは別に東方で形成され、九州の邪馬台国を統合したものか、逆に邪馬台国が東遷したものということになる。
いずれを取るかによって、日本列島における国家形成過程の理解が大きく異なるのである。
邪馬台国は、『魏志』倭人伝の記載をそのままたどると九州のはるか南海上に存在したこととなる。したがってこれを合理的に解釈するには、九州説の場合は倭人伝の距離の記載を、近畿説の場合は方位の記載を修正することが必要となる。
このことは、『魏志』倭人伝には史料としての限界があることを示しており、この問題の解決には、多くの状況証拠を提出しうる考古学の果たす役割が大きい。
次節に述べる古墳については、出現の当初から近畿を中心に分布することが知られている。従来、古墳の成立については、4世紀のこととされてきたから、3世紀前半の邪馬台国問題と直接関係しないと考えられてきたが、最近では、古墳の出現年代が3世紀後半までさかのぼると考える研究者が多くなり、少なくとも考古学の分野では、近畿説を取る研究者が多くなりつつある。
邪馬台国女王卑弥呼の使者が明帝への拝謁を求めて洛陽に到着している。この遣使の年は景初3年であるという異説(梁書倭国伝など)もあり、その場合には邪馬台国の使者が拝謁したのは曹芳だということになる。
参考 Wikipedia
東アジア世界の形成と発展
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北方民族の活動と中国の分裂
分裂の時代
3国のうちもっとも優勢であったのは、華北の大半を支配した魏(三国)であった。魏は、後漢末から遼東地方(中国の東北地方)に自立していた公孫氏の政権を倒し、高句麗を討ち、朝鮮の楽浪・帯方の2郡も抑えて領域に加え(邪馬台国の女王卑弥呼が、帯方郡に使者を派遣し魏に朝貢したのは、この翌年(239)のこととされる。)、やがて蜀も滅ぼした(263)。
周辺国家の形成
邪馬台国
漢代には多くの小国家に分かれ、中国の歴史書で倭と呼ばれていた日本列島でも、3世紀前後より邪馬台国を中心とする連合が進み、その女王卑弥呼は239年に魏(三国)に朝貢し、「親魏倭王」の称号をえて勢力をのばした(『三国志』魏書東夷伝倭人条。通称『魏志』倭人伝)。
その後、4世紀に入ると、ヤマト政権による統一が進められ、さらに朝鮮半島の抗争にも介入し、加羅や百済をたすけて高句麗に対抗した。
参考
同時代の人物
諸葛亮(181〜234)
中国後漢末期から三国時代の蜀漢の軍師。字は孔明。「三顧の礼」で劉備の軍師となる。劉備に「天下三分の計」を提案し、蜀王朝を支え、劉備亡きあと蜀を支え北伐を開始し司馬懿と戦う。