長州藩外国船砲撃事件 A.D.1863〜
長州藩が朝命を受け、攘夷決行期日の文久3(1863)年5月10日、下関の海峡を通る米・仏・蘭船を砲撃し、若干の損害を与えた事件。のちにその報復として、四国艦隊下関砲撃事件がおこる。
長州藩外国船砲撃事件
長州藩が朝命を受け、攘夷決行期日の文久3(1863)年5月10日、下関の海峡を通る米・仏・蘭船を砲撃し、若干の損害を与えた事件。のちに、その報復として、四国艦隊下関砲撃事件がおこる。
近代国家の成立
開国と幕末の動乱
公武合体と尊攘運動
尊王攘夷派の中心になった長州藩も、初めは公武合体運動を進めていたが、1862(文久2)年に中下級藩士の主張する尊攘論を藩論とし、朝廷内部の尊攘派の公家とも結んで、京都で活発に動いて政局の主導権を握った。尊攘派が優位に立った朝廷は、しきりに攘夷の決行と鎖国への復帰を幕府に迫り、幕府は攘夷決行の意思をもたなかったが、やむなく1863(文久3)年5月10日を期して攘夷を行うことを諸藩に通達した。長州藩はこれに応じ、その日、下関の海峡を通過した外国船に砲撃を加える長州藩外国船砲撃事件をおこした。
真木和泉(1813〜64)らは孝明天皇が大和に行幸し、天皇自ら攘夷戦争の指揮をとる計画もたてたがこの長州藩を中心とする尊攘派の動きに対して、薩麿・会津の両藩は朝廷内部の公武合体派の公家と連携し、ひそかに反撃の準備を進めていた。1863(文久3)年8月18日、薩摩·会津両藩兵が御所を固めるなか、長州藩の勢力と急進派の公家三条実美(1837〜91)らを京都から追放し、朝廷内の主導権を奪い返した(八月十八日の政変)。この前後、京都の動きに呼応して、公家の中山忠光(1845〜64)、土佐藩士の吉村虎太郎(1837〜63)らが大和五条の幕府代官所を襲った天誅組の変また、福岡藩を脱藩した平野国臣(1828〜64)、公家の沢宣嘉(1835〜73)らが但馬生野の幕府代官所を襲った生野の変、藤田小四郎(1842〜65)ら水戸藩尊攘派が筑波山に挙兵した天狗党の乱など、尊攘派の挙兵が相ついでおこったがいずれも失敗に終わった。
八月十八日の政変で失った勢力を回復する機会をうかがつていた長州藩は、1864(元治元)年、京都守護職の指揮下で京都市中の警備にあたっていた近藤勇(1834〜68)ら新撰組によって京都の旅館池田屋で20数名の尊攘派志士が殺傷された池田屋事件に憤激し、藩兵を京都に攻めのぼらせた。しかし、迎え撃った幕府側の薩摩·会津・桑名の藩兵と京都御所付近で戦い、敗走した。この事件が御所周辺でおこったので、禁門の変あるいは蛤御門の変と呼んでいる。
幕府は尊攘派にさらに打撃を加えるため、禁門の変の罪を問うという理由で朝廷から長州征討(第1次)の勅書を出させ、長州藩を攻撃した。また、貿易の妨げになる尊攘派に打撃を加える機会をうかがつていた列国は、イギリス公使オールコック( Alcook, 1809〜97 )の主導により、前年の長州藩外国船砲撃事件の報復として、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊が下関を砲撃し、陸戦隊を上陸させて下関の砲台などを占領した(四国艦隊下関砲撃事件)。