チャンパ王国(
A.D.192〜A.D.1832)
ベトナム中部に居住したチャム人が192年に後漢から独立してたてた。中国ではこの国を林邑(2〜8世紀)、環王(8〜9世紀)、環王(9〜15世紀)と呼んでいる。インド文化をとりいれ、海上貿易で繁栄するがアンコール朝と争いが絶えず、1832年阮朝に併合された。
チャンパ王国
- チャンパー Champa 2世紀末〜17世紀ベトナム中部にチャム人が建てた王国。中国名は林邑・環王・占城。4世紀末から「インド化」が進み、インドと中国南部との中継貿易で栄えた。10世紀以降はカンボジアや、特にベトナムと海上交易の利をめぐって抗争し、17世紀には阮氏による広南王国の属国となった。
- 2世紀末〜17世紀ベトナム中部に存続した国家。中国語文献で宋代以前は林邑あるいは環王、宗代以降は占城。実体は港市国家チャンパーを中心とした地方勢力の緩やかな連合体であった。4世紀末から「インド化」現象が強まり、南シナ海交易の拠点として15世紀まで繁栄した。
アジア・アメリカの古代文明
東南アジアの諸文明
民族国家の形成
ベトナム
チャム人(ベトナム)
半島東南部に居住したチャム人は、2世紀末に中国(後漢)の支配から脱して独立し、チャンパ王国をたてた。中国ではこの国を林邑(2〜8世紀)、環王(8〜9世紀)、占城(9〜15世紀)と呼んでいる。
この国はインド文化を採用し、中継貿易で栄え、石造寺院建築などに独自の様式を生み出した。しかし北隣のベトナム人の王朝や西隣のクメール王国(アンコール朝)との争いが絶えず、10世紀後半しばしばその支配を受けた。そして南下するベトナム勢力に圧倒され、15世紀後半にはほぼその支配下に入り、17世紀に滅亡した。
その間チャンパ王国には宋(南朝)・隋・元の遠征軍が来寇した。今日チャム人は少数民族としてインドシナ半島南東部に居住している。
諸島部の国々
スマトラ島におこったシュリーヴィジャヤ王国は7世紀ころおこり、9世紀半ば以後にはジャワから移ったシャイレーンドラ系の王統のもとで栄えた。都はスマトラ島東部のパレンバン付近にあり、最盛時には海上交通の要路マラッカ海峡とスンダ海峡を押さえるとともに、マレー半島南部を領土に加えジャワを支配し、さらにカンボジア・チャンパーへも遠征軍を送った。
東アジア世界の形成と発展
東アジア文化圏の形成
隋の統一
文帝の子の煬帝は、江南の杭州から華北の涿郡(現北京)にいたる大運河を完成させ、万里の長城を修築するなど、大規模な土木工事を次々におこなった。
大運河は、中国の北と南をひとつに結びつける画期的な意義をもつ事業であったが、多くの農民を徴発・酷使しておこなわれたため、農村は疲弊し、民衆の不満は高まった。
また、煬帝は外征にも力を注ぎ、東突厥や高句麗、ベトナムの林邑(チャンパー)などへの遠征をおこなったが、これらも民衆の困苦を増やすものであった。
こうして、3回にわたる高句麗遠征(610、612、614)が、高句麗の激しい抵抗にあって失敗に終わると、各地で農民反乱がおこり、煬帝は江南に逃亡したあげく、混乱のなかで殺害され、隋はわずか38年で滅んだ(618)。
宋代の文化
宋朝は水稲栽培技術にも革新があり、苗代つくりによる移植法や 施肥など、集約的水稲栽培の基本形態が完成された。(これ以外にも、クリークの泥の客戸法や正条植え、多数回の除草などもおこなわれた。)稲の品種も、11世紀初めには干ばつに強く痩せ地にも適した早稲種の占城稲(チャンパー米)がベトナムから導入され、同世紀末には江南の水田の80〜90%がこの品種で占められたという。これを利用して1年2期作もおこなわれ、また麦の需要増加は、麦を裏作とする稲・麦の1年2毛作の発達を促した。この時代に江南、とくに長江下流デルタの稲作地帯は、「蘇湖(江浙)熟れば天下足る」と諺にもいうように、農業生産と経済の中心になった。こうして唐代まで華北にあった中国の農業と経済の中心は、完全に江南へと移行したのである。