細川忠興
細川忠興(作者不明/永青文庫蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

細川忠興


Previous Post

Next Post

細川忠興 ほそかわただおき( A.D.1563〜A.D.1645)

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。丹後国宮津城主を経て、豊前小倉藩の初代藩主。肥後細川家初代。正室は明智光秀の娘・玉子(細川ガラシャ)。室町幕府の瓦解後、父藤孝とともに信長、秀吉に従って転戦。関ヶ原の戦いで東軍に与し、豊前40万石を領した。晩年は有職故実や茶の湯を楽しみ、茶の世界では利体七哲のひとりに数えられている。

細川忠興

関ヶ原の戦い地図
関ヶ原の戦い地図 ©世界の歴史まっぷ

関ヶ原で妻を失った利休七哲のひとり

父の細川藤孝とともに織田信長に属す。本能寺の変後、豊臣秀吉に従い、秀吉政権の部将として欠かせない存在となっていったが、武断派のひとりとして石田三成と対立する。早々と徳川家康への恭順の態度を示し、家康より豊後杵築ぶんごきつきに6万石の加増を受け、実質的に徳川氏との主従関係を結んだ。関ヶ原の戦いでは岐阜城を攻略し、本戦でも武功をあげるが、大坂に残していた妻・ガラシャが自害するなど犠牲もあった。戦後、豊前40万石が与えられた。晩年は有職故実や茶の湯を楽しみ、茶の世界では利体七哲のひとりに数えられている。

広告
Previous Post

Next Post