蓮華王院本堂
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蓮華王院本堂


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蓮華王院本堂

蓮華王院本堂れんげおういんほんどう三十三間堂さんじゅうさんげんどう)は、平安後期、後白河法皇の勅願で、平清盛が私費を投じて法住寺殿に建立した蓮華王院の本堂。「蓮華王」とは千手観音のこと。中尊の千手観音坐像をはじめとする仏像は、長寛2(1164)年に安置されたが、本堂と仏像の一部が建長の大火で焼失、鎌倉時代中期に本堂が再建された。

蓮華王院本堂

三十三間堂

平安時代末、5代34年間にわたって院政をしいた後白河法皇は、長寛2年(1164)、自らの住まいである法住寺殿の西側に蓮華王院れんげおういんの創建を勅願した。私財を投じて建立したのは、後白河の妃、滋子の義兄にあたる平清盛。その蓮華王院の本堂は、内陣の柱間が33あることから、「三十三間堂さんじゅうさんげんどう」と呼ばれている。

三十三間堂が建立された平安後期は、仏教が衰え、災いが蔓延する末法の世が到来すると恐れられていた。皇族や貴族は死して観音浄土へ至ることを願い、その思いは大量の造仏寄進へと駆り立てていた。寺院や仏像を建立し、徳を積むことは「作善さぜん」といわれ、これを行えば行うほど極楽浄土への往生がかなうと信じられていた。

後白河法皇もまた、三十三間堂に丈六じょうろく(高さ1丈6尺=4メートル80㎝ほどの大きさの像、坐像はその半分の大きさ)の中尊・千手観音坐像と、1000体もの等身大の千手観音立像の造仏を命じた。南北120メートルに及ぶ長大な堂内に、ひしめくように仏像が並ぶ特殊な空間は、後白河法皇の極楽往生を望む執念によって創建された。

創建から85年後、鎌倉時代中期の建長元年(1249)に、蓮華王院の諸堂は火災によって全焼した。2年後には再建が開始され、15年の歳月を経て、本堂と中尊を含む仏像が創建時のままに再興された。その中で現在、国宝に指定されているのは、本堂の建築と中尊の千手観音菩薩坐像、風神、雷神像、眷属けんぞく(従者)の二十八部衆蔵。中尊の両側に500体づつ、背後に1体(室町時代の補作)配された千体千手観音立像は、重要文化財に指定されている。

再建時、仏像制作の指揮をとったのは大仏師運慶うんけいの長男、湛慶たんけい。大量造仏のために、湛慶が率いる慶派だけでなく、院派、円派の仏師たちも製作に参加した。建長6年(1254)に中尊が完成した際、湛慶は82歳。造立以来800年にわたって変わらぬ穏やかな尊顔で人々を見守る中尊は、湛慶の円熟した技の結晶であり、その掉尾とうびを飾る名作だ。

年表

三十三間堂関連年表

1160 後白河法皇が東山に新熊野社と新日吉社を勧請し、比叡山の妙法院昌雲が別当となる(妙法院の始まり)
1161後白河法皇、勧請した熊野、日吉両社を鎮守として東山に法住寺殿を造営
1164後白河法皇の勅願で、平清盛が私費を投じ、法住寺殿に蓮華王院(三十三間堂)を建立
1173運慶の長男として湛慶誕生
1192後白河法皇没。三十三間堂東の法華堂に埋葬される
1192源頼朝が征夷大将軍となる
1203運慶・快慶ら、東大寺南大門の金剛力士立像を造立
1249「建長の大火」により、三十三間堂をはじめ蓮華王院諸堂がほぼ焼失
1251三十三間堂の再興が始まり、造像も開始される
1254湛慶、三十三間堂の中尊千手観音像を完成
1256湛慶が没する
1266三十三間堂と仏像が復興され落慶供養を営む

ギャラリー

蓮華王院本堂
蓮華王院本堂内陣 蓮華王院千手観音立像(画像出典/ニッポンの国宝100)
蓮華王院本堂
蓮華王院本堂 千手観音菩薩坐像(湛慶作)(画像出典/ニッポンの国宝100)
蓮華王院本堂
蓮華王院本堂二十八部衆の迦楼羅像(画像出典/ニッポンの国宝100)
蓮華王院本堂
浮繪和國景跡京都三拾三軒堂之図(歌川豊春画)©Public Domain

中世社会の成立

院政と平氏の台頭

平氏政権

平治の乱後、平清盛は後白河上皇の信任を得て、法住寺ほうじゅうじ御所の近くに蓮華王院れんげおういんを造営し、その本堂(三十三間堂)には千一体の千手観音像を安置するとともに、宝蔵には古今東西の宝物を納めた。こうした上皇への奉仕と武力によって、清盛は異例の昇進をとげて太政大臣となり、その子平重盛たいらのしげもりらの一族もみな高位高官にのぼって勢威並ぶもののないありさまとなった。

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