西夏 (1038年〜1227年)
西夏は、タングートの首長李元昊が現在の中国西北部(甘粛省・寧夏回族自治区)に建国した王朝。国号は大夏であったが宋では西夏と呼んだ。
首都は興慶(現銀川市)。モンゴル帝国のチンギス=ハンによって滅ぼされた。
西夏
東アジア世界の形成と発展
東アジア諸地域の自立化
宋の統一
文治主義の政策に終始した結果、宋は対外的な軍事力の低下を招いた。そのため北方や西方の遊牧民の圧迫に対して常に守勢にたたざるをえず、対外的には消極策をとった。契丹族の遼とは、1004年、 澶淵の盟を結んで莫大な歳幣(毎年絹20万匹・銀10万両)を贈ることを約束し、また、タングート(党項)族の西夏とは1044年に慶暦の和約を結び、西夏が臣下の礼をとるかわりに、やはり歳賜(毎年絹13万匹・銀5万両・茶2万斤)を贈った。
西夏の成立
唐末、黄河が屈曲するオルドスにおこったチベット系のタングート族(党項)は、吐蕃・ウイグルの衰退に乗じて東西交通の要衝河西地方(その中心が敦煌)に進出し、東西貿易路から得られる利益を基礎に強大化した。
1038年、族長の李元昊(景帝)は、西夏(1038年〜1227年)を建国し、都をオルドスと河西の境界にあたる興慶府においた。
宋ははじめ西夏の建国を認めず、宋・西夏間の戦争が勃発したが、苦戦に陥った宋は1044年、西夏と和約し(慶暦の和約)、西夏は宋に臣下の礼をとるかわりに毎年多額の歳賜(毎年銀5万両・絹13万匹など)を贈られることになった。また、宋との間には2ヶ所の榷場(官営交易場)が設置され、国境貿易がおこなわれた。
また儒教の導入により『論語』『孟子』『孝経』などの古典が翻訳され、仏教も盛行し、漢字をまねた独自の西夏文字をつくり、儒教の経典や仏典をはじめ多くの翻訳書を残している。
契丹文字は、数個の文字を組み合わせて一語を形成する。西夏文字は、契丹文字と同じように、漢字を似せた文字をいくつか組み合わせて一語を形成する。
その反面、タングート族独自の伝統的な風俗を保存するため、禿髪令が発布された。
やがて女真族の金がおこると、西夏は一時これに服属したが、1227年モンゴルのチンギス=ハンの征討により滅亡した。