コンモドゥス Nシリーズ「ローマ帝国」コモドゥス:血塗られた統治 あらすじと解説
コンモドゥス像(ローマ・ゲルマン博物館藏/作者不明 Wikimedia

Nシリーズ「ローマ帝国」コモドゥス:血塗られた統治 あらすじと解説

ドラマ


Nシリーズ「ローマ帝国」コモドゥス:血塗られた統治 あらすじと解説

Netflix オリジナル歴史ドラマ「ローマ帝国」は2世紀のローマ帝国ネルウァ=アントニヌス朝を舞台にした史実ドラマです。

Nシリーズ「ローマ帝国」コモドゥス:血塗られた統治 あらすじと解説

登場人物・キーワード

  • コロッセウム
  • マルクス=アウレリウス=アントニヌス:第16代ローマ皇帝・五賢帝の一人。
  • コンモドゥス:マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝とファウスティーナの六男。第17代ローマ皇帝。
  • アヴィディウス=カシウス:インペラトール・軍人。マルクス=アウレリウス=アントニヌスに反乱をおこす。
  • ファウスティーナ:マルクス=アウレリウス=アントニヌスの妻。皇后
  • ルッキラ:マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝ファウスティーナの次女。共同皇帝ルキウス=ウェルスと結婚。ルキウス=ウェルスの死後、ティベリウス=クラウディウス=ポンペイアヌスと再婚。
  • マルコマンニ戦争:162年〜180年 ローマ帝国北方国境で発生した戦争の総称。
  • カシウス・ディオ:ローマ帝国の政治家・歴史家。元老院議員として登場する。 カッシウス・ディオ – Wikiwand
  • クレアンデル:コモドゥスの幼少期から身辺の世話をしていたフリギア人の解放奴隷。コモドゥス即位後側近となり、私腹を肥やす。

あらすじ

1. 世襲君主

ゲルマニアとの過酷な戦いを前線で指揮するアウレリウスは、不肖の息子コモドゥスに帝王学を叩き込む。その頃宮殿では、誤った噂と陰謀が渦巻いていた。

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2. 即位への階段

ゲルマン民族との戦闘の最中アウレリウスが病に屈し、指揮権はコモドゥスの手に委ねられる。だが、この未熟な後継者は、政治や戦争には興味がなく

3. 元老院との反目

新皇帝に即位したコモドゥスだったが、完全な後ろ盾を得られたわけではない。実の姉ルッチラでさえ、反逆の機会を虎視眈々と狙っていた。

4. 爆発する不満

姉の謀反を阻止したコモドゥス。だが、その後責務を放棄し、道楽にうつつを抜かす。一方の敵対勢力は、帝位を脅かすだけの力を着々と蓄えていた。

5. 復興をかけて

穀物不足に痰を発し、側近クレアンドロスの背信が露呈。頼れる者を失ったコモドゥスは、民の信頼回復のため、剣闘士として闘技会に参加すると宣言する。

6. 14日間の死闘

コロセウムで華々しく開催された闘技会で、史上初の皇帝剣闘士コモドゥスは勝利を繰り返す。だが、誇大妄想による彼の独裁統治は、一層常軌を逸し

解説

ローマ帝国 同盟市戦争 パクス=ロマーナ 共和政ローマ ポエニ戦争 共和政ローマ(身分闘争) ローマの発展 6.ローマの成立と発展 ローマ帝国 ローマの領土拡大地図 ©世界の歴史まっぷ
ローマの領土拡大地図©世界の歴史まっぷ

マルクス=アウレリウス=アントニヌス(以下マルクス・アウレリウス)は五賢帝最後の皇帝として教科書にもよく登場します。パルティアやゲルマン人の侵入など、辺境で異民族の侵入や動乱が増えた2世紀後半に即位し、治世の大部分を陣営で過ごしました。ストア派哲学者でもあり、『自省録』を著し、「哲人皇帝」とも呼ばれます。

かたや実の息子のコンモドゥスの名を日本の教科書で見ることはほとんどありません。功績が残っていないのでしょう。

オリエントと地中海世界
オリエントと地中海世界 ©世界の歴史まっぷ

ローマは、紀元前27年オクタウィアヌス元老院から「アウグストゥス(尊厳者)」という称号を与えられて、共和政が終わり帝政がはじまりました。以来、マルクス・アウレリウス(在位161〜180)にいたるまで(カリグラ帝やネロ帝をのぞく)帝国は平和を享受し(パクス=ロマーナ)、その繁栄は絶頂に達しました。

その間、ローマ皇帝は実子の男子に恵まれなかったので、先帝たちは資質のある者を養子にして皇帝に育て上げました。しかしマルクス・アウレリウスは初めて実子男子をもうけました。哲人皇帝は放蕩三昧で資質があるとはいえない息子を、後継者に望んでしまいました。

哲人皇帝と敬われたマルクス・アウレリウスの息子コンモドゥスは、努力しなくても皇帝になることを約束されて育ちました。父帝の死後、即位したコンモドゥスの統治はどうだったのでしょうか。

ローマ帝国の元老院はとても強大な力を持っていました。皇帝と協力し合えばパクス=ロマーナは続いたでしょう。しかしコンモドゥスの統治から黄金期は終わりを告げ、混乱の時代に突入していきました。このドラマはコンモドゥスだけの責任のように描かれている感がありますが、18世紀のエドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』では、ゲルマン人の侵入と、平和主義的なキリスト教の拡大が没落の原因だと主張されました。ほかにもゲルマン人がローマ帝国=古典文化を暗殺したという説は根強く、ローマ帝国の拡大が軍事負担、都市の衰え、奴隷制の衰退を招いて、古代は内部の矛盾から崩壊していったとする考え方もあります。

始皇帝も、死後息子の胡亥が皇帝となりましたが、宦官の影響もあり4年ほどで国を滅ぼしてしまいました。

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