律令体制
隋王朝・唐王朝の国家体制を一般に律令体制と呼ぶ。これは、国家体制の根本をなす基本法典として 律・令・格・式を定め、国家の行政組織や業務などをすべて法典にもとづいて体系的に運営するという、きわめて中央集権的なシステムであり、日本や朝鮮などの東アジア諸国にも大きな影響を与え、その統一国家の形成に多大の役割を果たした。
日本の律令法は、7世紀末から8世紀初頭にかけて、唐の律令を導入することによって編纂され、701(大宝元)年に初めてり律・令ともに備わった法典として大宝律令が完成し、718(養老2)年には藤原不比等らによって養老律令がつくられ、757年に施行された。
律令体制
隋
中国統一に先立つ581年に隋(王朝)文帝は開皇律令を制定・施行した。非常に体系的な内容を有しており、これにより律令制が完成したとされている。
律では、残虐な刑罰が廃止され、判りやすい内容へ簡素化されている。官制も整備され三省六部や御史台が置かれ、官僚の登用に当たっては、幅広く門戸を開く科挙を始めた。また均田制に於いて給付と課税の対象がそれまでの夫婦単位から男性個人単位(丁・中男)へと移行している。これは、統一が為されたことにより給付対象が大幅に増え、そのことから来る土地不足が原因と思われる。
次の煬帝の代には、その改正である『大業律令』が頒布されたが、『開皇律令』と大差がなかった。
唐
唐(王朝)初代皇帝・高祖(唐)は、『開皇律令』に基づいて『武徳律令』を頒布した。
その後、唐王朝で律令・格式という法体系に基づいた国家の諸制度が整備され、三省六部制の国家機構、科挙による官吏登用・官僚制、均田制の土地制度、租庸調制の税制、府兵制の軍事制度など政治上の規定とともに、法律による刑罰制度、身分制度や家族制度、社会規範などに及ぶ広範な法治国家体制が出来上がった。
武韋の禍を克服した8世紀前半の玄宗(唐)の時の開元の治のころに制定された律令が最も整備されたものとされている。
律は『唐律疏義』という解説書が残され、令は日本の仁井田陞博士が逸文を編纂した『唐令拾遺』で復元されている。
東アジア世界の形成と発展
東アジア文化圏の形成
律令体制
三省・六部・九寺・一台
律令官制の中核をなす中央行政機関を、三省・六部・九寺・一台と呼び、とくに三省と六部が政治の中枢機関であった。
九寺は、それぞれ特定の任務に従事する専門官庁で、外務官庁である鴻臚寺はそのひとつである。
一台は、御史台をさし、官吏の不正の監視・摘発をおこなう監察機関であった。律令官制は体系的であったが、社会の変化に必ずしも対応しきれない固定的な面もあったので、のちになると、政策実施上の必要から、節度使や塩鉄使などの「使職」をはじめとする、さまざまな令外の官がおかれることになった。
律令体制における民衆支配は、均田制・租庸調制・府兵制を不可分のものとして運営するものであった。
均田制
租調庸制
租調庸は、租は丁男あたり粟(穀物)2石(約60ℓ)、庸は年間20日の労役(またはかわりに1日につき絹・絁は3尺、布は3尺7寸5分で代納)、調は綾・絹・絁2丈と綿3両、または麻布2丈5尺と麻3斤を納めるものである。
このほか雑徭という地方官庁での労役(年40日以内)や府兵の義務があり、全体として丁男の負担は重かったといえる。
府兵制
府兵制は、西魏に始まる兵制で、兵農一致を特色とした。唐では各地に折衝府を設け(最も多い時で630余ヶ所にのぼり、とくに長安、洛陽の周辺に集中しておかれた)、おおむね丁男3人に1人の割合で府兵を選び、3年に1回農閑期に訓練を施した。府兵には、都の警備にあたる衛士や辺境の防衛にあたる防人として勤務する義務があり、その服務期間中は租庸調を免除されたが、武器・衣服などは自弁せねばならず、その負担はきわめて重かった。
刑法である律の制定が戦国時代の秦の商鞅の改革に始まり、中国を統一した秦の始皇帝が法家の李斯を登用して法治国家の理念を具体化した。漢帝国でも基本的には継承され、律に続いて国家行政の規則である令もつくられるようになった。
三国時代の魏や、南北朝時代の北魏などの北朝で発達し、統一を回復した隋において、律令という形で定着した。次の唐では律令・格式の法体系が出来上がり、政治機構から社会経済、刑罰に至る法体系によって国家が運用される律令国家が出現した。
8世紀前半の玄宗(唐)の時が最も整った時期のものとされている。この法体系は日本を始め、新羅、渤海など6~7世紀に国家機構を整備した東アジアの周辺諸国にも採用され、後世に至るまで大きな規制力を持つこととなった。さらに後代の明では、明律と明令が制定された。
律令国家の形成
唐と日本の律令
日本の律令法は、7世紀末から8世紀初頭にかけて、唐の律令を導入することによって編纂された。
日本の律令は、唐の律令を母法とする継受法という側面と、固有法という側面とを、併せもっている。ただし、固有法とはいっても、隋・唐以前の中国南北朝の法制を朝鮮諸国を通じて導入したり、朝鮮諸国の国制を導入したりして、形成されていったのであり、どこまで日本固有のものかを判断することは難しい。
また、中国では儒教の基本である礼楽が、律令を支える社会思想として機能していたが、日本ではそれらを受容することはなく、律令は単なる支配の道具という側面が強かった。中国では律が先に編纂されたのに対し、日本では、令のみで律が編纂されなかった飛鳥浄御原令、令の方が先行して施行された大宝律令にみられるように、行政法としての令の方が優先された(令のみが現在まで伝わっているのも偶然ではない)。また、社会の発達の段階が、唐と日本では格段の差があった。氏族制的な原理が在地社会で生き続けていた日本においては、律令は「統治技術の先取り、もしくは目標」と認識されていたのである。
なお、唐の律令と比較すると、律は唐律をほぼ引き写したものであるのに対し(ただし、概して日本律の方が唐律よりも刑罰が軽い)、令は唐令を参照しながらも、日本の国情に合うように修正した箇所もある。例えば、家産分割法としての戸令応分条が日本では遺産相続法に変えられていたり、外祖父母の地位が中国に比べて高く規定されていることなどは、日本の社会構造に対応したものと考えられる。