セルビア バルカン半島の危機 第2次バルカン戦争後のバルカン半島
第2次バルカン戦争後のバルカン半島 ©世界の歴史まっぷ

バルカン半島の危機

列強の二極化はバルカン半島のナショナリズムを刺激し、バルカン半島での勢力変動が列強の対立をさらに深化させたので、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。

バルカン半島の危機

オーストリア=ハンガリーは自国内のスラヴ系諸民族にパン=スラヴ主義の影響がおよぶのを恐れ、バルカン半島への勢力拡大をねらっていた。ドイツにも世界政策の一環として中欧からバルカンへの支配を拡大し、ドイツ民族の連帯を主張するパン=ゲルマン主義が唱えられていた。1908年夏、オスマン帝国青年トルコ革命がおきると、オーストリアはベルリン会議で行政管理権が認められていたボスニア=ヘルツェゴヴィナを併合した。両州の住民は大半が南スラヴ系であり、南スラヴの統合を唱えるセルビアが編入を望んでいた地域であった。オーストリアに反発したセルビアはロシアに助けを求め、戦争の危機が高まった。

1911年、列強の関心が 第2次モロッコ事件 にむけられているときに、イタリアはトリポリ在留民の保護を口実にイタリア=トルコ戦争をおこした。翌年、スイスのローザンヌで開かれた講和会議の結果、イタリアは北アフリカのトリポリ・キレナイカの支配権を獲得した。この戦争は、バルカン諸国を刺激し、セルビア・ブルガリア・モンテネグロ・ギリシアの4国はバルカン同盟を結成し、1912年オスマン帝国に宣戦布告した(第1次バルカン戦争)。セルビアがロシアの支援をえてアドリア海への進出を求めたことにオーストリアが強く反発し、ロシア・オーストリア両国は国境付近に大軍を集結させた。しかし、イギリスはロシアに圧力を加え、ドイツもオーストリアを抑制したため危機は回避された。

1913年5月のロンドン条約で、オスマン帝国はイスタンブル周辺をのぞくバルカン半島のほとんどを割譲した。しかし、その割譲された領土の分配にあたりセルビアとブルガリアがマケドニア地方の領有をめぐって争った。ギリシア・モンテネグロばかりでなく、ルーマニアもセルビア側について参戦した(第2次バルカン戦争)。この戦争に敗北したブルガリアはマケドニアなどを失った。これ以後、ブルガリアとオスマン帝国はドイツへの依存を強めていった。このように列強の二極化がバルカン半島のナショナリズムを刺激し、バルカン半島での勢力変動が列強の対立をさらに深化させたので、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。

バルカン問題:ナショナリズムと列強の思惑が複雑に交差するバルカン半島は、「ヨーロッパの火薬庫」とよばれた。

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