ルイ14世の政治
宰相ジュール・マザランはフロンドの乱を鎮圧して王権をいっそう強化。ここにフランス貴族は無力化し、王権の装飾物のような存在となった。ルイ14世は王権神授説を唱え、貴族を宮廷に仕えさせ、官僚制とヨーロッパ最大の常備軍を整えるなど、その権勢はまさしく頂点に達し、彼は「太陽王」と呼ばれた。しかし、1685年にナントの王令が廃止されると…。
ルイ14世の政治
アンリ4世(フランス王)の次に登位したルイ13世(フランス王)(位1610〜43)は、1624年以降、宰相にリシュリュー(1585〜1642)を登用して貴族やユグノーの勢力を抑え、絶対王政を確立した。また、財政改革を推進したものの、他方では1614年以後全国三部会を招集せず、専制的な政治を展開した。
1643年、その子ルイ14世(フランス王)(位1643〜1715)が幼少で即位すると、政治の実権を握ったイタリア生まれの宰相ジュール・マザラン(1602〜1661)は、貴族や高等法院による反乱(フロンドの乱 1648〜1653)を鎮圧して、王権をいっそう強化した。ここにフランス貴族は無力化し、王権の装飾物のような存在となった。
ルイ14世 その治世のもとでの宮廷や社交界から劇作家・思想家・芸術家が輩出し、古典主義文化の最盛期が現出した。
フロンドの乱
ブルボン家による絶対王政への貴族勢力の最後の反乱。ルイ14世の即位を機に、高等法院が反旗をひるがえし、宮廷は一時、パリを逃れたが、反乱は王党派のコンデ公によって鎮圧された。しかし、コンデ公はマザランと対立して失脚、コンデ軍がパリを支配したが、コンデ軍の背景にスペインが関与していることが判明したため、王党派がもりかえし、ついにパリを奪還、宮廷はパリにもどった。
ジュール・マザランの死後、みずから治世にあたるようになったルイ14世は「朕は国家なり」と称して王権神授説( 絶対王政とは)を唱え、典型的な専制君主となった。貴族を宮廷に仕えさせ、官僚制とヨーロッパ最大の常備軍を整えるなど、その権勢はまさしく頂点に達し、彼は「太陽王」と呼ばれるようにもなった。
王はまた、商工業の育成をはかって、王権の財政基盤を確立することをめざした。この目的のために、マザランに登用された財政総監ジャン=バティスト・コルベール(1619〜1683)を重用して、王立マニュファクチュア(工場制手工業)を設立するなど、フランス独特の重商主義政策を推進した。
コルベール主義
コルベールが推進した諸政策は「コルベール主義」の名のもとに、フランス重商主義の代名詞となっている。国内に金・銀を多く蓄えることが経済繁栄の道と考えた彼は、国内に鉱山のないフランスとしては、輸出を増やし、輸入を減らすことで金・銀を獲得すべきだとした。このため、特権を与えてゴブラン織りなどのマニュファクチュアを育成し、保護関税政策を展開した。そのほか、造船、海運の奨励にも務め、植民地の確保をめざしたが、軍事支出には反対であった。
しかし、1685年にナントの王令が廃止されると、商工業者の中心を占めていたユグノーたちがイギリスその他の国に亡命し、フランス経済は深刻な打撃をこうむった。17世紀のフランスは、全体に人口も増えず、経済発展の点ではイギリスに遅れをとったとされている。
もともと狩猟のためのロッジであったが、ルイ14世は1661年に親政を開始すると、この離宮の大々的な拡張工事を命じた。図は1668年、ほとんど完成した姿の宮殿。
他方、文化の面では、ルイ14世の時代は歴史上もっとも華やかな時代のひとつとなった。華美を好んだ彼は、ヴェルサイユに華麗な宮殿を造営(ヴェルサイユ宮殿)し、サロンをつくって文学や美術を奨励したため、フランスがヨーロッパの中心となり、フランス語がヨーロッパの上流社会の共通語となった。
ルイ14世(フランス王)は、財政改革や重商主義政策によってえた経済力を背景に、軍制改革をおこない、ヨーロッパ最強ともいわれる軍隊をつくりあげた。この軍事力によって、彼はスペイン領ネーデルラントやオランダへの侵略戦争をくわだてたが、イギリスなどが連携して対抗したため、大きな成果はなかった。
1700年には、孫のフェリペ5世(スペイン王)(位1700〜1724、1724〜1746)をスペイン王に即位させたことからスペイン継承戦争がおこった。この戦争で、イギリス・オーストリア、オランダなどが連合してフランスと対抗した。
1713年に締結されたユトレヒト条約では、フェリペ5世(スペイン王)の王位は承認されたが、フランスとスペインの合同は認められなかった。逆にイギリスは、スペインからはジブラルタルなどを、フランスからは、カナダの一部やニューファンドランドなどを獲得することになった。そのうえ、こうしたたび重なる戦争でフランスの王室財政は、ルイ14世(フランス王)の末期にはしだいに悪化していった。また1714年には、ルイ14世(フランス王)と神聖ローマ皇帝との間でラシュタット条約が結ばれた。
略年表
ヨーロッパ主権国家体制の展開
1562 | ユグノー戦争(〜98) |
1571 | レパントの海戦 |
1572 | サン・バルテルミの虐殺 |
1580 | スペイン、ポルトガルを併合 |
1581 | オランダ独立宣言 |
1588 | イギリス、スペイン無敵艦隊を撃破(アルマダの海戦) |
1589 | フランス、アンリ4世(フランス王)即位(〜1610)ブルボン朝 |
1598 | フランス、ナントの王令、ユグノー戦争終結 |
1603 | イギリス、シュチュアート朝(〜1714) |
1607 | イギリス、ヴァージニア植民地設立 |
1613 | ロシア、ロマノフ朝成立(〜1917) |
1618 | ドイツ三十年戦争(〜48) |
1620 | メイフラワー号、プリマス着 |
1628 | イギリス、権利の請願 |
1640 | イギリス、ピューリタン革命開始(〜49) |
1643 | フランス、ルイ14世即位(〜1715) |
1648 | ウェストファリア条約 |
1649 | イギリス、チャールズ1世処刑、共和制となる(〜60) |
1651 | イギリス、航海法 |
1652 | イギリス・オランダ戦争(〜74) |
1653 | イギリス、クロムウェル、護国卿となる |
1660 | イギリス、王政復古 |
1682 | ロシア、ピョートル1世即位(〜1725) |
1688 | イギリス、名誉革命 |